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「米騒動」100年プロジェクト

『米騒動』を抱きしめて

-ECHOES FROM THE RICERIOT-

 今、安倍と小池のしかけた「政変劇」に、どの野党も浮き足立っているかのようです。一人ひとりの「生」のありようがあまりにも軽く扱われているこの現代において、それぞれの「生」の〈結び=合い〉、〈組み=合い〉のありようを自律的に創りだして行く堅実な「社会運動」の勢力と、その「社会運動」の勢力が自ら生み出していく〈自立・自律〉した「政治」こそ、いま必要なのではないでしょうか。
 来たる2018年は、「米騒動」の発生から100年。日本の歴史上最大規模の民衆騒動である「米騒動」は、その直後に労働運動や水平運動等さまざまな「社会運動」を呼び起こしていきました。さらに「米騒動」が収束してからも、まるでその「エコー」のように、いくつもの「民衆運動」や「民衆騒動」が継起していきます。
 私・たちは、1918年の「米騒動」と、その「エコー」としての「民衆運動」・「民衆騒動」を手掛かりに、自分たちがこれから創りだして行きたい運動のイメージや、そうした「社会運動」が連合する「社会運動」の勢力をどのように創りだして行くのかを、いくつかの「テーマ」を軸にして考えていきたいと思っています。
 以下の「季刊ピープルズ・プラン」77号に載せた、「『米騒動』を抱きしめて ECHOES FROM THE RICERIOT」と題した文章を一読ください。
 追って、具体的な内容について案内します。

2017年10月

【特集】 ロシア革命とは何であったか

「『米騒動』を抱きしめて:ECHOES FROM THE RICE RIOT

  列島横断プロジェクト」へ向けて

生・労働・運動ネット富山

 

 現在、私・たちは、来年二〇一八年が「ロシア革命/米騒動から百年」となることを契機に、富山という地域を超えた協同の営みとして、上記の「列島横断プロジェクト」を進めようとしている。この「プロジェクト」に向けて、「米騒動」の現在的な意義について私・たちがどのように捉え、そこに孕まれた可能性や「問い」をどのように受けとめようとしているのか、また、この「プロジェクト」を通じて私・たちは何をめざしたいのかについてふれておきたい。

 

●「米騒動」を抱きしめて

    過去と現在の民衆の闘いをつなぐ

 政治的・社会的な状況の新たな平面を切り拓くような大きな「民衆騒動」や「民衆運動」の中で、「生」の困難の苦しみから身を起こそうとする者たちが共に支配秩序のあり方を打破しようとする営みが、この列島においても多様に展開されてきた。そうした営みの中で、人間の「生・老・病・死」を共同の関係の中で支え合うような、人間の尊厳に相応しい「生」の〈結び=合い〉・〈組み=合い〉やそれを軸とする社会の組み立てを、人々は絶えず希求し、創り出そうとしてきた。そのように、歴史を貫いて絶えず民衆によって希求・実践されてきた支配秩序に対抗的な「生」の〈結び=合い〉・〈組み=合い〉のありようを、私・たちは〈生のサンジカ〉と呼ぼうとしている。

 来年二〇一八年は、ロシア革命からほぼ百年であると同時に、日本の歴史上最大規模の民衆騒動である大正の「米騒動」からちょうど百年目となる。この〈生のサンジカ〉という言葉を私・たちの「導きの糸」として、この列島の「民衆騒動」・「民衆運動」の歴史を貫いて継起的に褶曲するものの系譜を捉え直すことを通じて、現在の私・たちにとっての「米騒動」の大きな意義がさらに鮮明になるのではないか、と私・たちは感じている。

 

●一九一八年の「米騒動」をいかに捉え返すか

(1)ロシア革命に対するこの列島の民衆からの〈応答〉として

埠頭での米の搬出阻止や集団行動による米の廉売の獲得といった一九一八年夏の富山の「米騒動」は、新聞を通じて全国的に大きく報道されたが、それは、列島各地へと連鎖反応的に伝播しながら、数百万人もの民衆が参加するという、日本の歴史上最大規模の民衆騒動となった。その際に、とりわけ、当時、大量の米を食べることで厳しい肉体労働に耐えてきた人々にとって文字通り「命の糧」であった米をめぐって、店頭での集団的な米の「自主的値引き闘争」から、米の搬出阻止行動、米の廉売を拒否する米穀商の家屋や店舗の破壊、街頭での警察隊との対峙行動等まで、大小の様々な直接行動が互いに連動して展開された。そのような意味で、それは、まさに〈生のサンジカ〉と呼ぶに相応しいものだった。[1]

  一九一八年の「米騒動」は、米の値段がつり上げられることを阻止するための貧民・窮民の伝統的な「モラルエコノミー」の手段であった「米騒動」が、日露戦争後の資本主義の急激な展開の中で急増した都市貧民の闘いや、港湾・炭鉱労働者といった生成中の近代工業労働者の「ストライキ」・「賃上げ闘争」とも結合しながら、全国各地で繰り広げられた。そのように、「米騒動」という伝統的な民衆騒動のスタイルが近代工業労働者の闘いと結合して新たに生まれ変わることで、いわば「最後の輝き」を放つとともに、そうした直接行動に基づく運動スタイルは、「米騒動」後の社会運動の中に脈々と受け継がれることになった。

  一九一八年の「米騒動」は、急激な米の高騰がその直接的な引き金となっているが、その背景には、「シベリア出兵」による需要の高まりを見込んで、投機的な米の買い占めや売り惜しみが行われたということがある。そうしたロシア革命に対する「干渉戦争」としての日本の「シベリア出兵」にも現れているように、日本「帝国」が朝鮮半島を越えてさらに東アジアの大陸部への軍事侵攻・占領を図るという新たな段階に入ったことが、一九一八年の「米騒動」の時代的な背景としてある。

 また、一九一八年の「米騒動」は、一九〇五年の「日比谷暴動」以降の一連の「都市騒擾」に連なるものであると同時に、「日比谷暴動」や「第一次護憲運動」等とは異なり、「帝国」ナショナリズムや議会政治的な回路を経ずに、民衆が自己組織化を通じて、自らの「生」の要求そのものに基づく直接行動を展開することで、日本の民衆運動はそれまでにない新たな平面を切り拓いた。そのように、「生」の要求を掲げる都市の民衆の存在がもはや無視しえないものになっていることを明確に突きつけたという意味で、一九一八年の「米騒動」は、ロシア革命に対するこの列島の民衆からの〈応答〉と見なすに相応しいものだった。

 

(2)「米騒動」の「アフターライブズ(事後の生)」としての

社会運動の展開と支配者側によるその「反転」

 一九一八年の「米騒動」のピークは同年八月から九月にかけての二ヶ月弱の期間だったが、そのように、当時の民衆が直接行動を通じて自らの「力」を実感して、「みんなで暴れれば米の値段を下げることができる」という集団的な経験による自信を得たことは、その後の様々な社会運動を大きく前進させる原動力となった。

 「米騒動」後の一九一〇年代後半から一九二〇年代にかけて、労働運動のめざましい成長や、当事者自身による被差別部落解放運動の登場、社会主義運動の復活、その少し前から登場した日本の初期フェミニズム運動、農民運動の全国組織の「日本農民組合」の結成(一九二二年)、また、「借家人同盟」といった都市住民の運動等も含めて、多彩な社会運動が互いに共鳴して、いわば、一つの「星雲」を形成しながら活発に展開された。そのように、民衆を「代表」・「代理」・「指導」する組織や党の登場以前の時代に、民衆が自らの「生」の〈結び=合い〉・〈組み=合い〉のありようを変えることの模索・実践は、現在の私・たちにとって改めて大きな意味をもつようになっているように思う。

  一九一八年の「米騒動」は、このようにその後の社会運動の展開を大きく促す一方で、民衆が自らの秩序転覆的な「力」を突きつけることで、日本の支配層にロシア革命に勝るとも劣らない衝撃を与えるものだった。同時に、そのことは、支配の側が「階級対立」の存在を認めつつ、それが民衆騒動や「階級闘争」に行き着くことを回避するために、一方では普通選挙制を通じた民衆の意識の馴致・誘導、他方では人々の欲求や必要性に立脚して政策的に「社会問題」・「生活問題」に取り組むという、「社会的なもの」を通じた統治への転換を促すことになった。[5]

 「米騒動」は、支配層に米の安定的な供給が社会秩序の安定にとって死活問題であることを強く認識させたが、それに対して、支配の側は、一九二〇年代の「朝鮮産米増殖計画」等を通じた朝鮮半島の日本の「食糧基地化」を推進することで、「食」の問題の解決を図った。そうした政策によって、すでに、日本による朝鮮の植民地化に伴う「土地測量事業」によって農地を奪われ、各種の税金や公租公課の負担に苦しんできた朝鮮の民衆の窮乏化がさらに進んだことが、朝鮮から日本列島への大規模な移住を促す大きな要因になった。そのことが、現在の「在日朝鮮人」に関わる様々な差別の問題の「結節点」になっている。

 また、「米騒動」後の社会運動に現れた民衆の自律的な自己組織化に対抗して、支配の側は、一九一九年三月に始まった内務省の「民力涵養運動」といった「教化運動」等を通じて、人々の支配体制への同化を図った。さらに、「米騒動」の中で示された警察への反感・敵意の解消に向けて、「警察の民衆化」を掲げて、職業上のトラブルや住宅問題、人間関係までも含めた住民への「人事相談活動」を全国的に実施する一方で、「民衆の警察化」として地域住民による「防犯組合」や「自警団」の結成を進めた。そうした支配の側による民衆の組織化が生み出した最悪の結果の一つが、関東大震災での「朝鮮人虐殺事件」だったことは、今さら言うまでもない。  ここに日本の社会運動がいまなお抱える最大の「アポリア」がある。[2]

 「米騒動」の「アフターライブズ(事後の生)」としての社会運動の流れは、日本国家が戦時体制に突入する中で、一九三〇年代半ば前後の時期を最後に途絶したか、もしくは戦時下の「翼賛運動」の中に埋没してしまったかのように見える。しかし、「米騒動」とその「エコー(残響・反響)」としての社会運動に見られるような、「生」の自律的な〈結び=合い〉・〈組み=合い〉のありようを目指す運動のスタイル 〈生のサンジカ〉への希求は、ある種の「範型」となって、その後も日本の「民衆騒動」・「民衆運動」の中で絶えず継起し続けてきた。[3]

 

●「ロシア革命/米騒動から百年」を「腐敗と分断の時代」に終止符を打つことへの転機に!

     「列島横断プロジェクト」の方へ

 ロシア革命から百年目の現在、かつて社会運動を大きく規定してきた「ボルシェヴィズム」由来の運動スタイルが完全に威信や影響力を失う一方で、それに代わる新たな運動スタイルが確立されないという状況が、とりわけ、この列島では続いている。そうした中で、「米騒動」やその「エコー」としての社会運動を通じて民衆が自らの「生」の〈結び=合い〉・〈組み=合い〉のありようを変えようとした模索・実践、先ほどからの言葉で言えば、〈生のサンジカ〉への希求は、現在の私・たちにとって改めて大きな意味をもつようになってきているように思う。

 そのように、一九一八年の「米騒動」の現在的な意味をいかに探るかということは、「米騒動」とその「エコー」としての〈生のサンジカ〉への希求の運動の系譜を私・たちの「背後の〈未来〉」として、そこから自分たちが創り出したい新たな運動のイメージや「範型」への手がかりをいかにつかみ出すかという「問い」でもあるだろう。また、そのことは、同時に、この国の現在を生きる私・たち自身がそうした民衆運動の流れに連なるような運動をいかに生み出すか、を問うものでもあるはずだ。[4]

 一九一八年の「米騒動」から五〇年後にそれまでの民衆運動の「古典的範型」の再審・解体を進めた〈68年〉、その「反転」としての「ネオリベ・グローバリズム」(による「社会的なもの」の「縮減・廃棄」政策)が、現在、大きくゆらぎ始めるとともに、そうした「ゆらぎ」やそれが誘発する排外的・差別的・暴力的なナショナリズムの突出によって、「ロシア革命/米騒動から百年」を目前に世界は「大乱」の様相を呈し始めている。そうした状況の中で生み出される民衆同士の「水平暴力」の激化ではなく、その「ゆらぎ」を〈68年〉の「反転」としてのネオリベ・グローバリズムそれ自身の「反転」・「解体」へとさらにいかに転じていくのか。そうした意味で、「資本主義を歴史的遺物に!」という声を、現在の運動の中で改めてどのように継承し、展開させていくかが、切実に問われているように思う。[5]

 ネオリベ・グローバル資本主義による私・たちの「生」の困難に加えて、今、私・たちは、それに抵抗するための対抗的な言説の不在という大きな〈危機〉に直面している。そのことによって、私・たちが現在の状況をリアルに捉えることさえも妨げられているという事態の打破に向けて、「ロシア革命/米騒動から百年」という歴史の大きな節目を、私・たちの側の集団的な対抗言説の形成のための機会に転じたい、と思う。

 「『米騒動』を抱きしめて:ECHOES FROM THE RICE RIOT  列島横断プロジェクト」。「革命(の挫折)と戦争の世紀」の後、今改めて「米騒動」を抱きしめることが孕む現在的な可能性や「問い」を受けとめなおすこと。また、そのことを「米騒動」の全国的な拡がりを担ったそれぞれの地域で、その〈底〉に息づく民衆運動の系譜をたどりなおすことを通じて連鎖的に展開すること。そこからさらに、現在のネオリベ・グローバル資本主義との「無理心中」を拒否し、それを「歴史的遺物」にするための対抗的な論議を進め、〈生のサンジカ〉への希求に基づく反資本主義運動の直接性を豊かにし、〈生のサンジカ〉のイメージを対抗的な社会構想として創造するための営為を生み育てること  そうした協同の企てをともに創り出すことに向けて、この「列島横断プロジェクト」への参加を全国各地の多くの人たちに呼びかけたい。近いうちに〈相談の集い〉をもちたいので、プロジェクトに参加しようと思う地域の方々が連絡を寄せられることを期待する。

 現在、「列島プロジェクト」に向けて、富山の私・たちは、以下のような5つのテーマを軸に、一九一八年の「米騒動」とその「エコー」としての「民衆騒動」・「民衆運動」を〈生のサンジカ〉への希求の系譜として描き出すことを試みている。

 

[1]「米騒動」の発火点となった富山  富山湾岸の東、「滑川」の街で、「女一揆」の系譜を生き継ぐ人々の〈生のサンジカ〉を希求する営み、その根底にある「おっかあ」たちの息吹を「再訪」し、その後の列島の歴史の中でその息吹はどこへ行ったか、「おっかあ」たちの堅い腰つきの中へか、列島社会の亀裂に落ちた者を抱きしめる女たちの所作の内へか・・・・・想像力をはせる。

[2]「『米騒動』と朝鮮」  中野重治「雨の降る品川駅」の転変をたどり、『三・一独立運動』・『米騒動』への反動としての「帝国」の「農業政策」に追われて「滞日」した朝鮮人労働者と日本人労働者との一九二〇~三〇年代の「共同闘争」の苦難の軌跡を改めて検証し、この列島の社会運動が抱える「アポリア」を超える手がかりを探る。

[3]「米騒動」から百年  この列島では、その後ほぼ10年の間隔で、その「エコー」が多様に木霊してきた。その木霊の系譜をたどる 「一九一八年+10×N」の系譜。例えば、N=1:「全協」労働運動 日朝労働者共同闘争、N=2:「人民戦線」蠢動 「土曜日」グループなどの緩やかな反ファシズム戦線、N=3:「生産管理闘争」・「食糧人民管理」 〈戦後0年〉の〈生のサンジカ〉行動、N=4:「大正行動隊」・「退職者同盟」の闘い 流民労働者群のアナルコ・サンジカ闘争、N=5:〈68〉年騒乱の噴出、N=6:「寄せ場」攻防 「日雇全協」、N=8:「新宿ダンボール村」 「野宿者のサンジカ」闘争、N=9:「フリーター」・「保障されざる者たち」による〈生・労働・運動〉の叢生・・・・・

[4]「米騒動」から百年  その百年の時の底で、この列島社会のひび割れがもたらす〈傷〉を負い生きる者・たちと向き合い、抱きしめてきた女たちの長い列、その女たちが問うてきたもの、その問いを問い返すことなしに私の女=性の解放はありうるか?を改めて考える。

[5]「米騒動」の全国化の初発を担った富山の女/いま全国化されつつある「富山・共生型ケア」の初発を担っている富山の女  その営みを包摂・簒奪する国家・資本に抗って、私・たちは、その〈先〉に現代の〈世直し〉=この列島域の〈生のサンジカ〉への構成の初発を拓くことができるか?を問う。

 

『季刊ピープルズ・プラン』第77号(2017年8月発行)所収

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