高齢者生存組合

2025年度 企画 報告
「バトンをつなぐ  未来につなぎたいもの」

2025/12/14

2025年度連続講座 第3回 報告

第3回 案内チラシ pdf

 

 私・たち「高齢者生存組合・富山」は、高齢者が抱える〈生きがたさ〉からの解放を求め、相互の結び合いの力で社会と向き合うことを目指す生存組合です。
 高齢者生存組合の2025年度連続講座「バトンをつなぐ―未来につなぎたいもの」の第3回(9月14日(日))の集いでは、「若い人たちに伝えたいこと 福祉サービスで障害者差別は解消されたのか?」と題して、前回に引き続き、「自立生活支援センター富山」の平井誠一さんを話し手に迎えました。今回、平井さんは、前回ではあまり触れなかった90年代以降の平井さんの動きや、現在、平井さんが自分が利用する福祉サービスに対して感じていることを等を話してくれました。
 以下、その時の平井さんの話とその後の「フリートーク」での論議を紹介します。

平井誠一さん

会場のようす

 

平井誠一さんの話から

 

「反差別国際行動」を通じて海外の障害者や被差別少数民族と出会う

 

 前回の平井さんの話でも触れられていましたが、1991年に車イスを使用する富山養護学校のの卒業生が富山大学に入学しました。当時は、経済学部の校舎以外には大学内にエレベーターはなかったそうですが、その学生が入学したことを機に、富山大学では大学の「バリアフリー化」の推進に向けて、エレベーターや障害者用トイレの設置を順次進めました。そうした障害者の受け入れに向けた「大学改革」の予算の獲得のためには、大学側に障害をもつ教員も必要だということで、平井さんは教育学部の非常勤講師になることを大学から依頼されて、その後、25年間、「人権と福祉」というテーマで授業を行ったということでした。90年代以降、平井さんはそうした富山大学での「バリアフリー化」と併せて、国際的なレベルでの障害者解放運動や被差別者の運動にも関わってきました。
 1988年、日本の「部落解放同盟」の呼びかけによって、世界中からあらゆる差別とマイノリティの権利の回復に向けた国際的な組織として「反差別国際行動」(IMDR)が結成されました。その後、93年に、反差別国際行動は、日本に基盤をもつ人権NGOとして始めて国連の協議資格を承認されました。反差別国際行動が結成された当時は、まだ、黒人を白人居住地から隔離・排除する南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策が大きな国際問題になっていた時期でした。反差別国際行動ではそうした問題の他、スリランカや南米の少数民族に対する差別問題、また、かつてジプシーと呼ばれていたシンティ・ロマの人たちの人権問題にも深く関わっていたということでした。平井さんが反差別国際行動の理事になった1990年に、平井さんは米国を訪問して現地の障害者団体との交流を行いましたが、その時に、「日本はコンピュータをたくさん製造して海外にも輸出しているのに、なぜ日本の障害者はそれをもっと活用してパソコン通信をやらないのか」と強く言われたそうです。そのことをきっかけに、平井さんは帰国後、富山大学の教員や学生の協力を得て、パソコン通信を始めたということでした。
 なお、平井さんが訪米した1990年は、ちょうど、罰金等の具体的な罰則を課して、雇用や交通機関、公的サービス、通信といった社会生活のあらゆる場面で障害者への差別的な待遇を禁止する「障害をもつアメリカ人法」(略称ADA法)が制定されたばかりの頃でした。平井さんはADA法のことを知って、そうした罰則規定を伴わないために、実際にはほとんど効力を発揮しない日本の人権に関わる法律との違いを強く感じたそうです。その一方で、たぶん、ADA法の罰則を逃れるためか、平井さんが米国で泊まった古いホテルには一応スロープが付けられていたそうですが、そのスロープが45度の急斜面で使うのが怖くて、「こんなものをどうやって車イスで昇り降りできるのか」と思ってしまったということでした。

 東西ドイツ統一後、ネオナチの活動が活発になり、ドイツでは、1995年に障害者の人たちがネオナチに襲撃されて、駅のホームや階段から突き飛ばされるという事件がひんぱんに起きていたそうです。そうした状況の中、「一度実際にドイツに行ってみよう」ということで、平井さんは全障連としてドイツを訪問して、フランクフルトやケルンの自立生活支援センターのメンバーとの交流を行った他、キリスト教系の団体が運営する障害者の就労施設を訪ねました。95年のドイツ訪問では、平井さんたちは、ドイツのシンティ・ロマの人たちと一緒に、ナチスドイツ時代に障害者を精神病院の地下室に集めて毒ガスや薬物注射で殺害した「ハダマール障害者強制収容所」の跡を訪ねたそうです。そこでは障害者だけではなく、シンティ・ロマの人たちや、戦争で負傷して「用済み」とされた傷痍軍人も多数殺害されたということでした。ハダマール強制収容所はハダマールの街の市街地にあったのですが、地元の人たちが強制収容所の存在に気が付かないように、そこで殺害された人たちの死体を焼却する際に匂いが外に漏れにくい構造になっていたということでした。

 


 ハダマール強制収容所については、「灰色のバスがやってきた―ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置」(草思社・1991年)という本が日本でも出版されていますが、その本のタイトルにある「灰色のバス」というのは、元々は郵便物を集めるための車両だったのですが、それに障害者を乗せてハダマール強制収容所に連行したという暗い歴史があります。ハダマール強制収容所だけでも、1万人近い障害者が殺害されたということでした。また、ナチスドイツによって、約50万人ものシンティ・ロマの人たちが強制収容所で殺害されています。

 

 

   

 

  

 

 

 

 平井さんは、90年代初頭に、ナチスドイツがフランス・ストラースブール市に建設した「ナッツヴァイラー強制収容所」の跡地も訪ねています。その時に、強制収容所に収容された人たちの髪の毛で編んだ靴下やセーター、また、そこで殺害された人たちの死体の脂肪から作ったという石鹸が展示されているのを見て、大きな衝撃を受けたということでした。なお、ナッツヴァイラー強制収容所も含めて、ナチスドイツ時代の強制収容所のほとんどに人体実験用の解剖室が置かれていたそうです。

 

 

  

 

   

 

  

 

 

  

 

   

 

  

 

 

その他にも、平井さんは、1993年にフィリピンで開催された反差別国際行動の総会に参加した際に、現地の障害者や少数民族の人たちと交流を行っています。その時のフィリピン訪問では、平井さんは、スペイン植民地時代に建設されて、太平洋戦争中の日本のフィリピン占領時代に日本軍の司令本部や憲兵隊本部として使用されていたサンチャゴ要塞跡を訪ねたということでした。1945年2月末の米軍によるマニラ解放後、サンチャゴ要塞の地下牢獄から数百人ものアメリカ人やフィリピン人の遺体が発見されたそうです。また、サンチャゴ要塞の地下には「水牢」があり、近くの川の水を流し込んでそこに閉じ込めた人たちを溺死させた後、川に死体を流す仕組みになっていたということでした。

 

 

 

そのように、今回の集いでは、平井さんが、戦争の問題と障害者に対する差別・蔑視や排除の問題を不可分のこととして考えようとしていることが、よく伝わってきたように思います。

「支援費制度」の創設から22年後の現状を捉え直す
 

 「措置から契約へ」を謳い文句として介護保健制度が導入された2000年から、障害者福祉制度も大きく変わってきましたが、とりわけ、制度の在り方の画期的な転換だったのが2003年に導入された「支援費制度」でした。支援費制度では、障害者が自分に必要な介護サービスの種類・利用時間や介護サービスの事業者を選択・申請して、市町村自治体がそれを適切だと認めれば「支援費」が支給される、という仕組みでした。それによって障害者介護サービスに対する公的支援の金額が大幅に増えることで「介護バブル」状態になって、地域で暮らす障害者に介護者を派遣する自立生活支援センターの中には3階建てのビルを建てるところも出てきたそうです。
 しかし、同制度の導入による障害者介護サービスの予算の増加が当初、国が想定していた範囲を大きく超えたということで、原則として介護サービス利用料の1割の負担を障害者に求めることを定めた「障害者自立支援法」が2005年に制定され(発効は翌2006年)、支援費制度は開始後わずか3年で終了します。その後、障害当事者や障害者運動団体から、障害者自立支援法に対する批判や同法の廃止を求める声が高まった結果、2010年の同法の改正(2012年発効)では、それまでの定率負担(応益負担)から、収入ごとの負担能力に応じた負担(応能負担)に制度が変更されました。その後、2013年に障害者自立支援法は廃止され、それに代わり、「障害者総合支援法」が制定されました。
 なお、障害者自立支援法を廃止し、新法を制定するに際して、政府の「障がい者制度改革推進会議」の下に設置された「障がい者制度改革推進会議・総合福祉部会」(総合福祉部会)」に多数の障害当事者や障害者団体のメンバーが参加して、新法の理念や方向性について論議を重ねました。そこでの論議は、最終的に2011年8月末に「障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言-新法の制定を目指して-」(骨格提言)という報告書に結実しました。しかし、残念ながら、OECD諸国の平均値並みの福祉予算の増額や、市町村間のサービス格差の解消といった「骨格提言」での要求の多くは、障害者総合支援法には盛り込まれませんでした。
 そのように、2000年代に入って、障害者介護サービスをめぐる法律や制度が何度も変更されてきた間に、日本の福祉制度の根幹に関わるような大きな出来事がいくつも起きています。前回の平井さんの話でも、大手の介護人派遣会社コムスンが雇用するヘルパーの人数をごまかす虚偽申請や介護報酬の不正受給を行っていたことが発覚した、2007年の「コムスン事件」に触れていました。その事件は、介護保健制度の導入まで公的なサービスとして、主に行政による「措置」や少数の事業所で行われていた介護人派遣事業に、営利を目的とする企業が参入することになったことの矛盾を象徴するものだったように思います。
 「共生社会」や「バリアフリー」ということばが盛んに言われるようになった状況の中で、2016年7月、神奈川県相模原市の知的障害者の入所施設「津久井やまゆり園」で入所者の障害者19人が殺害され、26人が重軽傷を負うという「相模原障害者施設殺傷事件」が起きています。その事件の背景として、「意思疎通できない重度な障害者は不幸であり、社会に不要な存在であり、『安楽死』させるべきだ」という極めて差別的な障害者観が加害者の元施設職員にあったことが報道されています。事件後、そうした考え方に共感したり、障害者や高齢者の「安楽死」・「尊厳死」を肯定したりする書き込みがネット上に飛び交っていることが、マスコミで取り上げられていました。
 そうしたネット上の書き込みのレベルを超えて、2019年2月、NHKは、重い神経難病を患う日本人女性がスイスの「安楽死施設」で薬物を使って自死するまでの過程を取材したドキュメンタリー番組『彼女は安楽死を選んだ』を放送しました。それに対して、「公共放送でそうした番組を流すことは、『安楽死』の肯定や『合法化』につながるものだ」として多くの人たちが批判や懸念の声を上げました。また、2019年11月末には、京都で、医師と元医師の2名がALS患者の女性から金銭的報酬を受けて彼女に薬物を注入して「嘱託殺人」を行う、という事件が起きています。
 そのように、相模原障害者施設殺傷事件の後、「社会に不要な存在」だと見なされた人々の抹殺を肯定する「優生思想」的な差別意識が蔓延するとともに、そうした行為を犯すことに対する歯止めが弱体化していることに対して大きな危機感を抱いているということを、平井さんは今回の集いでも改めて強く訴えていました。

介護事業者が利用者を選別する時代に

   

 現在、人手不足のために廃業する介護人派遣事業所や高齢者のグループホームの数が増えているそうです。市町村自治体レベルでも介護保険事業所が無くなるところが出てきていて、「介護保険料を払っているのに、なぜ介護サービスを使えないのか?」という不満を訴える人たちがたくさんいる、ということでした。
 介護保険制度ができた当初は、どんな利用者でも受け入れていましたが、平井さんによれば、最近では介護事業者側が手がかかって面倒だと判断する利用者を拒否するようになってきていて、自宅での介護サービスやデイサービスを利用できないということが起きているそうです。とりわけ、「コロナ禍」以降、そうした傾向が強くなってきているということでした。介護保険制度が始まった頃は、「施設から地域への移行」ということがよく言われていましたが、今では逆に、施設では扱いにくい人たちを地域へ出すという皮肉な状況になっているということでした。そのことの背景には、やはり、施設で働く人たちを集めることができないということがあって、少し前であれば、派遣ヘルパーよりも介護施設で働く方が仕事がラクだと言われていましたが、現在、施設にも若い人たちが来なくなっています。
 かつては障害者は「お客様」で、「私たち障害者が事業者を選ぶんだ!」と言っていましたが、今ではそんな状況ではなくなっているということでした。また、重い身体障害のある人たちを対象とする「重度訪問介護制度」を利用する際に、以前なら1回で2~3時間の枠でも利用できたのに、最近では、そうした短時間の利用では採算が取れないということで、「1回で8時間以上、利用するなら介護に入りますが、2、3時間なら利用を受け付けません」と言われるようになっているそうです。また、24時間の介護人派遣事業を行っている事業所でも、夜間なら利用者が寝ていることが多くてちょっとした介護だけすればいいということで、特に高齢のヘルパーから、「夜の時間帯にだけ入りたい」と言われることがよくあるそうです。
 平井さんは介護サービスの利用のことで相談を受けているそうですが、その人は悪性リンパ腫で退院後は介護サービスを利用することを希望していますが、どこの介護事業所でも受け付けてくれないということでした。本人は胃ろうで栄養を取っている上に吸痰も必要で、さらに意識障害があって意思疎通がうまくできないときがあり、会話をしていても途中で意識を失ってしまうことがあるそうです。介護事業者からサービスの利用を拒否される原因は、入退院を繰り返すからということでした。そのように、現在、介護事業者は、採算を取るために利用者を囲いこもうとする一方で、人手不足の中で事業所の運営を成り立たせるために「自己防衛」するようになっていると、平井さんは感じているそうです。

一見、便利なようで障害者や高齢者が生きにくい社会に

 

 今回、平井さんは、障害者として介護保険制度のサービスを利用する経験から感じていることを話してくれましたが、現在、平井さんは日常生活で必要なことをしてもらうためにヘルパーに来てもらっているそうです。しかし、同じヘルパーを利用している人たちの話では、「買い物は自分でやってください」とか、「食事は作りません」などとサービスを拒否するような言い方をされることがあるそうです。また、平井さんが利用している介護人派遣事業所のヘルパーで最高齢の人は80代で、若い人でも50代だということで、60~70代の年齢の人が一番多いということでした。
 少し昔であれば、店の人が配達の際にちょっとした用事をしてくれたり、近所の人が来てくれて一緒に買い物に行くようなことがあったと思いますが、結局、障害をもつ人たちの多くは地域での人間関係がヘルパーだけになっていて、福祉サービスを受けるという形でしか地域社会の中で生きていないことを、平井さんとしては物足りなく感じているということでした。最近、同じ地域で障害者と健常者がともに生きていることが「共生」だ、という言い方がよくされているそうです。それに対して、平井さんは、そうであれば、かつて障害者を隔離・収容した「コロニー」では障害者と健常者の職員が同じ空間で生活していたから、それも「共生」だということになるのか?と、思ってしまうということでした。
 なお、この間、福祉の領域では「社会資源の活用」ということがよく言われるそうですが、それは具体的には、地域のボランティアや子ども食堂のようなものを指しているようです。そのように、公的な福祉サービスをできるだけ地域の「社会資源」で置き換えることで、政府は福祉予算の削減を図ろうとしているのだろうけれども、今の地域社会にそんなものが本当にどこまであるのか、平井さんとしては疑問に思わざるを終えない、ということでした。
 現在の介護保険制度ではヘルパーが付き添う形での外出支援サービスはないのですが、富山市では障害者の外出のための支援制度として「移動支援事業」があります。しかし、平井さんによれば、実際に病院での受診の際に「通院等介助」という制度を使おうとすると、病院内でトイレの介助をするとか、診察室に同行するのでなければ、病院での待ち時間にヘルパーが障害者と一緒にいてもその分の報酬はないので、ヘルパーは病院に同行したがらないそうです。また、最近、バス等の公共交通機関では乗降用のスロープが車内に用意されていて、車イスの障害者でも利用できるようになってきていますが、スロープの出し入れを面倒がって障害者を乗せてくれないバスの運転手が今でもいるということでした。そうでなくても、公共交通機関の利用者が少なくなるにつれてバスや電車の本数が減らされてしまって、利用しにくくなっています。
 また、エレベータが設置されていない駅でも、駅員がいれば手を貸してもらって車イスでも電車を利用することもできますが、この間、JRや地鉄では無人駅が増えていて、無人駅の近くに住んでいる車イスの障害者の中には、わざわざ駅員がいる遠くの駅まで行って電車に乗っている人もいるということでした。障害者や高齢者のための「福祉タクシー」もありますが、「乗降介助料」として一回乗るのに千円、降りるのに千円かかるので、往復で利用すれば、運賃とは別に、それだけで4千円もかかることになります。
 最近のスーパーやコンビニではセルフレジの機械をよく見かけますが、高齢者や障害者にとって、セルフレジを使って自分で支払いをするのはけっこう大変なことです。その他にも、セルフ給油方式のガソリンスタンドが増えていますが、その場合、一度車から降りて自分で給油して支払いの操作もしなければならないので、障害者の立場からすれば、車に乗ったままで給油してくれるスタッフのいるガソリンスタンドをもっと増やして欲しい、ということでした。また、このところ、街中からコンビニや銀行が無くなってきていて、ちょっとした買い物やお金の出し入れが不便になっているので、平井さんとしてはそのことも気になっているということでした。

「高齢障害者」に無理解な医師やケアマネに対する疑問を抱く

 医療法の改正により、今年2025年4月から、訪問診療等で継続的に診察を行うとともに必要な時に専門の医療機関とつなげて、ケアマネとも連携する「かかりつけ医」が制度化されました。しかし、平井さんのような「高齢障害者」に適切に対応することができる地域の町医者のかかりつけ医がなかなかいなくて、探すのに苦労しているそうです。以前、関わっていた人のかかりつけ医が、「こんな治療は障害者には無理だ」と一方的に決めつけて治療しないということがあって、担当する訪問看護師もそれはおかしいということで、一緒にかかりつけ医を変えようとしたのですが、邪魔が入ってなかなかスムーズに行かず、大変な思いをしたということでした。かかりつけ医が障害者や高齢者に理解のある場合はいいが、そうでなければ、そのように利用者にとってマイナスに働くこともあるということでした。
 現在、平井さん自身も含めて65歳以上の障害者が増えているにも関わらず、ケアマネの中には、「障害者のことは分からない」と平井さんに面と向かって言う人もいるそうです。平井さんとしては、「分からないからこそ、そこをがんばってやって欲しい」と思うのですが、どうしても「分からないからやりたくない」ということになってしまうので、そのようなケアマネとも何とか一緒にやりながら、ケアプランを考えているということでした。平井さんは、病院で人工関節の手術をするまでは、ケアマネに頼らずに「セルフプラン」方式で自分の介護サービスの利用計画を立てていましたが、手術後、「退院するなら、ケアマネを付けてください」と、病院から強く言われて、やむなくケアマネを探すことになったそうです。しかし、それはどうも、平井さんのことを配慮したというよりも、退院時のカンファランスにケアマネが同席することで病院の診療報酬の点数が加算されるということがあって、そのように言ったのではないかということでした。
 日本の医療・福祉制度では、どうしても障害者や高齢者は「支援される側」で、ヘルパーやケアマネ、施設の職員は「支援する側」という構図になってしまって、ともすれば、「支援する側」が一方的に介護サービスを決めることになりがちです。平井さんの知人で、幼いころに「森永ヒ素ミルク事件」で障害を負って、現在60代後半の人がいます。その人は、誤嚥性肺炎になって3か月間入院している間に歩けなくなってしまったのですが、病気が治って退院するときに、「自宅での生活は無理だから、施設に入った方がいい」と言われてしまったそうです。もしかしたら、平井さん自身もいつか高齢で歩けなくなるかもしれないけれども、その時に、そのように一方的に「施設に行け!」と言われても簡単に認めるわけにはいかない、ということでした。
 なお、最近、介護サービスに対して何か苦情や困りごとがあれば、サービスの利用者がケアマネに言えばいいということになっているけれども、実際にはケアマネが何でも問題を解決できるような体制にはなっていない、というのが平井さんの率直な思いだそうです。そのように、ケアマネがサービス利用者の苦情を何でも受けとめればいいと言われる一方で、そのことで行政が本来果たすべきことをせずに責任逃れをしてしまっているのではないか、と平井さんとしては危惧しているということでした。

自分なりの仕方でデイサービスを利用する

 今回の集いの最後の方で、平井さんは、認知症の診断テストで有名な長谷川医師が、「これまで自分は認知症の人にデイサービスの利用を進めてきたが、自分が認知症になってデイサービスに行ったら、ちっとも面白くなかった」と言ったというエピソードを紹介していました。そのように、医師やケアマネは、本人によかれと思ってデイサービス施設等の介護サービスの利用を進めるのだけれども、実際にはサービスの押しつけになっていることもあるのではないか、ということでした。とりわけ、それまで介護サービスを利用していなかった高齢者に対してサービスの利用を促す際に、本人にとってどのようなサービスが良いかを専門職の人たちが勝手に判断して決めることになりがちではないか、と平井さんとしては感じているそうです。
 人工関節の手術をして病院を退院した後、平井さんは身体の不具合で自宅の風呂が使えなくなったので、退院後に入浴のできる高齢者用のデイサービス施設を利用することになりました。最初の内は、週2回、そこに行ってテレビを見ながら体操をした後で入浴して、昼食を食べてから、体操・塗り絵・おやつ等の時間があり、送迎時間を待つ、というパターンを繰り返していたそうです。しかし、それだけでは時間を持て余してしまうので、施設の責任者にパソコンを持ち込んで仕事をしてもいいかと訪ねたところ、それは別にかまわないという返事だったので、平井さんは途中からパソコンを持参して、デイサービスに通っていたということでした。
 また、デイサービスの営業時間内であっても早く帰ってもいいと言われたので、その後はそのようにしていたそうです。いろいろと制約のある中で、そのように、平井さんとしてはできるだけ自分なりのやり方でデイサービスを利用するようにしていたということでした。
 平井さんは、デイサービスに通う一方で、リハビリの担当者と相談してリハビリに励んだ結果、自宅の風呂に入れるようになったので、デイサービスの利用は3か月で止めたそうです。そうした経験から、平井さんは、長谷川医師のことばにもあるように、同じ介護サービスでも利用者かそうではないかという立場の違いによって全く違って見えるということを、身をもって実感したということでした。
 


フリートークでの論議から
 

 

 今回の集いの平井さんの話の後の「フリートーク」では、前回の集いでの平井さんの話に対する補足や感想も含めて、会場の参加者と平井さんの間で活発な論議や意見交換が行われました。以下、その時の論議のアウトラインを紹介します。

司会者:
 この後は、前回の集いでの平井さんの話も含めて、自由に感想等を出してもらえればと思うが、私自身の障害者解放運動との関わりについて少し言うと、私が学生だった頃に、前回の平井さんの話にあった「富山市差別文書糾弾闘争」の富山市との「確認会」や「糾弾会」に連れて行ってもらった。その場には、全国から駆けつけた全障連の人たちも参加してたが、「障害者解放運動に関わる障害者の背後に政治党派がいるのでないか」という予断の下に、他の自治体に対応を尋ねる照会文書を送った富山市の差別的な姿勢を追及する障害者の人たちは、すごく迫力があって健常者の自分にとっては怖いくらいだった。その後、私は障害者の介護に入るようになったが、当時、障害者と介護の健常者は、本音でぶつかるような「熱い」関係で、自分も夜中に起こされて「しんどいから後にして」と言って、後で相手から怒られることもあった。今は逆に、そうした関係がなくなってしまったのではないかと、平井さんの話を聞いて改めて思った。

参加者A:
 前回の集いでは、バスの運転手による障害者への乗車拒否に抗議して青い芝の会のメンバーがバスを占拠した「川崎バス闘争」の映像を見たが、自分も昔、富山で障害者をバスに乗せようとしたときに、バスの運転手に乗車拒否されたことがあった。その時、自分たちがバスから降ろされると同時に、それまで静かだった老若男女の乗客たちが一斉に、「お前らみたいのは、バスに乗ってくんな」、「迷惑だ」と大声で罵倒し始めた。それは自分にとっては思いがけない体験で、ある意味では面白かった。そのような感想を自分の周囲の障害者の人たちに言ったら、ひんしゅくだったが。

参加者B:
 今日、平井さんはデイサービスのことを話していたが、やはり、今のデイサービスというのは、障害者本人のためのものというよりも、家族がラクになるためのものかな、と思う。本人が「こういうデイサービスだったら行きたい」とか、「こういうサービスが欲しい」と思っても、サービスが保険点数化されていたり、「メニュー化」されていたりするので、そういった要求に応えるのは実際にはなかなか難しい。現在の福祉の状況は、先に制度があってその枠に利用者が自分の生活を合わせねばならなくて、「その枠の中で生きてください」と言われているように感じる。
 制度に頼らなくても、たとえば、ある車イスの障害者は会話ができないけれども、スーパーで買い物をする際に、「何か困ったことがあれば、この番号に連絡してください」というメモを用意していて、スーパーの店長などが対応できるようにしているそうだ。また、言語障害のある障害者で、乗ってる電動車イスが途中で止まるようなときに、メモの携帯電話の番号を近くを通る歩行者に指で示して連絡してもらっている人も知っているが、それで特に問題は起きていない。SNS上では、「障害者と関わって何かあったときの責任はどうするんだ」といった話が飛び交っているが、そのように、「危険だから」とか、「何かあったらどうするんだ」ということばかりになると、結局、何もできなくなってしまって、障害者の生活は非常につまらないものになってしまうのではないか。

参加者C:
 「65歳以上の障害者は介護保険制度の利用が優先だ」として障害者総合福祉法の介護給付の支給が却下されたことに対して、千葉市の70代の男性の障害者が却下処分の取り消しを求めた裁判のことを、最近、ネットの記事で知った。記事によれば、東京高裁の判決で一度原告の男性側の勝訴となった後、現在、審理が高裁に差し戻されているということだった。そのように、「介護保険制度の利用の優先」というルールによって、それまで利用していた障害者福祉制度のサービスが利用できなくなってしまうことについて、平井さんはどう思っているのか。また、平井さん自身はどのように介護サービスを利用しているのか。

平井:
 私自身は、あまり介護サービスを使っていないということもあって、もっぱら介護保険制度のサービスを利用している。去年は介護保険のサービスをたくさん使ったが、主に利用していたのは、人工関節の手術の後の入浴のためのデイサービスや、訪問リハビリ後にシャワーを浴びるための身体介護サービスだった。富山市の意向としては、障害者が65歳以上になった時点で介護保険制度を優先的に使わせる方向にもっていこうとしている。  生活保護制度の利用者は介護保険料や介護保険のサービス利用料が実質的に免除されるが、生活保護を取っていない65歳以上の障害者が介護保険を使って、デイサービスに通ったり、車イスや介護用ベッドをレンタルしたりしてお金を使いすぎると、今度は、身体介護サービスや訪問介護・訪問リハビリを利用するお金が足りないということになってしまう。また、同じデイサービスでも、「質の高いサービスを提供している」という認定を受けた大手の事業所は、介護保険の点数の加算率が高くなって、他と比べて利用料が高くなる。
 私が知っている65歳以上の障害者でも、今でも障害者福祉制度の介護サービスだけを使っている人もいるし、それと介護保険制度の両方のサービスを利用している人もいる。そうした意味では、千葉の高齢障害者の裁判の結果が、今後の障害者の生き方に大きな影響を与えることは間違いない。なお、制度的には、「65歳以上の障害者は、介護保健制度の限度額まで介護サービスを使ったら、障害者福祉制度を利用してサービスの不足分を補うことができる」ということになっている。しかし、介護保健制度で介護人派遣事業を行っている事業者の多くは、障害者に介護者を派遣する資格をもっていないので、実際にはそうしたサービスの切り替えは極めて困難だ。

参加者D:
 ストレートにお尋ねするが、「障害者解放」という言葉はいつ死んだのか。

平井:
 自分としては、それは2000年代に入ってからのことではないかと思う。前回の私の話の中で、1979年の養護学校反対運動の動画をお見せしたが、その動画の中で視覚障害者で全障連の代表幹事だった楠敏雄が文部省(当時)前で抗議アピールをしている場面があった。2014年に彼が亡くなった後、関西の全障連は無くなってしまったが、彼がいなくなったことは障害者解放運動にとって大きな痛手だった。なお、現在、私も含めて4人のメンバーで集まって、全障連として会議を行っている。
 この間の障害者の運動は、相談事業や介護人派遣事業を行う事業所の運営が主要な活動になっているが、世代交代していく中で、かつてのように障害者が解放されるとはどういうことかとか、障害者差別といかに闘うか、とかいう話をしなくなってきている。障害者が運営する事業所自体も、介護者が集まらないことで存続が難しくなっている。また、長年、障害者介護をやっていたヘルパーがいなくなった後、代わりの人を新たに雇っても、すぐに辞めてしまうということが多い。
 前回の集いでも話したように、私は全障連として、障害児が地域の学校に通うことを求める「就学闘争」に関わっていた。「統合教育」が進まない現状に対して、自分たちとして教育の問題にもっと力を入れたいと考えているが、最近の障害児の親は、「いろいろと手厚く世話をしてもらえるから、支援学校に通学する方がいい」と思う人が多くて、そのことが運動として成立し難いのが現状だ。

参加者E:
 私は、2000年から約5年間、自立生活支援センター富山がスタートする直前の時期まで平井さんたちのやっている「富山生きる場センター」で働いていたが、自分がいたのはちょうど障害者の運動の変わり目の時期だったように思う。前回の平井さんの話ではその頃のことを少し振り返っていたが、当時の富山生きる場センターのスタッフ同士の関係は熱気があって、ピアヘルパーの講座を行うなど、地域の障害者の自立生活を支援するということをもっとストレートに打ち出していた。今日の平井さんの話で、「介護保険の点数が・・・」といった話を聞くと、その頃とは、障害者運動の雰囲気が変わってしまったのかなと思う。
参加者F:
 2003年から2005年ぐらいまでは、措置ではなく、支援費制度になり、施設を出てくる人がどんどん出てきて、私自身、その手助けができているという意味でやりがいがあり、ぱあっと目の前が開けるようなわくわく感があった。しかしその後、支給量の抑制があり、締め付けが厳しくなった。支援費制度が使えた数年間はよかったが、今は変わってしまった。

平井:
 支援費制度が始まった頃は、介護サービスの利用の際に細かく注文をつけられることはなかったが、それが廃止されて以降は、「相談事業所を決めてケアプランを立てないと、介護サービスは利用できない」ということになってしまった。そのことで自分たちの活動内容も大きく変わってしまったように思う。

参加者G:
 私は学生時代に平井さんたちと出会ったが、富山市差別文書問題の糾弾闘争の会場に連れて行ってもらってから、私自身も障害者の介護に入りながら、障害者解放運動に関わってきた。前回の平井さんの話にあった闘争の場面に私も連れて行ってもらって参加したが、その頃の運動に関わって自分も楽しかったし、全障連の障害者の人たちの強い思いに触れて、「障害者が解放されるということは、自分自身の解放にも繋がることだ」と感じていた。
 私は今、精神障害者が通う就労系の福祉施設で働いているが、私の職場では、平井さんたちのように介護保険のサービスの保険点数の計算に苦労するということはない。しかし、先ほどから言われているように、自分自身も「制度の枠に利用者の生き方を押し込める」ということをしてしまっているのではないか、と身につまされるところがある。施設の利用者が楽しいのが一番大事だとは思うが、福祉施設の職員をしていると、どうしても当事者を差し置いて、「この人だったら、こういうサービスがいいだろう」という発想になってしまいがちだ。
 先ほどの参加者の発言にもあったが、支援費制度の廃止後、制限が厳しくなって福祉サービスの利用が不自由になったというのは、どこの障害者の自立生活支援センターのスタッフでも感じていることだと思う。そのような制度の在り方に対する疑問をもつケアワーカー同士でもっと繋がりたい、と思う。今日の集いで何人もの人たちが指摘しているように、福祉制度の不備や介護サービスの不足といった難しい問題への対応が、結局、福祉現場のケアワーカーに「丸投げ」されてしまっている。本当は、そういった問題は現場のスタッフだけが悩むことではなく、「この問題をどうするんだ!」ということを富山市や県の福祉行政の担当者にぶつけるべきではないか。ぜひ、この場にいる人たち同士でそのようなことを考えて、一緒に元気よく行動できたらいいと思う。

参加者H:
 今日の集いの論議を聞いて思うのだが、障害者解放運動の1つの「到達点」は、国に支援費制度を作らせたことではないか。今日の平井さんの話にもあるように、この間、介護保険制度のサービスの運用に合わせて、障害者の介護サービスの利用が規制されるようになっている。しかし、本当は話が逆で、高齢者福祉の制度自体が、かつての支援費制度のように、高齢者がサービス利用料の心配なしに、「必要な支援を、必要なときに、必要なだけ受けられる」ためのものに成るべきではないか。介護保険制度の要介護認定も、本当は医師でなく、実際に高齢者へのケアを行っているヘルパーやケアワーカーが、高齢者本人が望む生活をするためにはどんな支援やサービスが必要かを本人と相談しながら行うべきものだ、と思う。
 このところ、この国でもようやく、「障害」とは当事者の身体機能の欠損が生み出すものではなく、当事者が社会参加するための条件を整備しない社会の在り方が生み出すものだという、「障害の社会モデル」ということが、言われるようになっている。そのような「社会モデル」への認識の転換というのは、この国の高齢者の抱える〈生きがたさ〉がなぜ生じているかを考える上でも必要なことではないか、と思っている。そういったことも含めて、障害者解放運動が思想的にどのような地点に到達して、何を成果として勝ち取ったかということが、現在の高齢者福祉制度の在り方を見直す際の1つの手がかりになるのではないか。また、そのことが、「バトンをつなぐ」というテーマを考える上でも大事なことのように思う。

司会者
 前回と今回の2度にわたって平井さんを迎えて話してもらった後で、今日は時間を取って参加者同士で活発な論議をすることができた。今年度の「バトンをつなぐ」の集いを終了した後も、ぜひ、このように障害者や高齢者の福祉について日頃から感じていることを率直に言い合う場をもつことができれば、と思う。
 確かに制度ができていろんなサービスが生まれているが、先ほどから何人もの人が指摘しているように、そのことで逆に、当事者が制度の枠内で生きることを強制されるという状況になってきている。そうした状況を打破するには、かつての障害者解放運動のように、要求を掲げて行政に迫る力をもう一度私たちが取り戻すことが必要ではないか。そのためにも、「バトンをつなぐ」の集いでできたつながりを活かして、今後、障害者や高齢者の福祉制度の在り方についての実態調査や論議を進めることができれば、と思っている。

発言する参加者

質問に答える平井さん

発言する参加者

発言する参加者

高齢者生存組合リーフ表
高齢者生存組合リーフ裏
高齢者生存組合 ご挨拶
 
もうたくさんだ行進!
高齢者生存組合を!
とめるぞ!志賀も川内も!
ブラック企業 ゼロにしろ!