高齢者生存組合

2025年度 企画 報告
「バトンをつなぐ  未来につなぎたいもの」

2025/09/03

2025年度連続講座 第2回

第2回 案内チラシ pdf

 

 2025年度企画「バトンをつなぐ――未来につなぎたいもの」第2回は、自立生活支援センター富山代表の平井誠一さんを話し手にお迎えました。
 平井さんは、1985年、障害者運動の拠点や障害者の就労の場として「富山生きる場センター」を開設し、2000年には、障害者解放運動を地域でさらに積極的に進めるために、「自立生活支援センター富山」を開設しました。

 今回、0からの模索 「地域で健常者と障害者がともに生きるぞ!」と題して、1970年代から1990年代までの取組について話してもらいました。
 以下、その時の平井さんの話のアウトラインを要約し、当日使用したスライドも交えて紹介します。 (スライドをクリックすると画像が拡大します)。

高齢者生存組合からの挨拶

平井誠一さん

 

障害者を取り巻く時代的背景

 

 戦後の日本国家の障害者への対応は、傷痍軍人への対応から始まった。1946年~1951年にかけて「福祉三法」が制定され、戦後の福祉施策が展開されていった。
 1971年から多くの障害者をひとつの場所「国立コロニー」に収容するようにしていた。1000名を超えるところもあったようだ。富山では「セーナー苑」がそれにあたり、500名ぐらいの障害者が収容されていた時期もあったようだ。2003年まで続いた。
 1979年の養護学校義務化を阻止する運動は全国的に展開された。このことについては、後で述べたい。
 1981年は国際障害者年だったが、それを契機に障害者にかかわる制度が変わったかというと、なかなか改善されなかった。2006年に障害者権利条約が採択されたが、国内法を整備するのに、時間がかかり、批准したのが2016年だった。それに比べて1989年に採択された子どもの権利条約は国内法整備もそこそこに1994年に批准されている。
 1989年から少子化が始まるが、時を同じくして養護学校が増加していく。この状況が今も続いている。
 2000年から〈措置制度から契約制度〉に移行したが、このことについては次回9月にふれたい。

タイトル

時代的背景 1

時代的背景 2

時代的背景 3

 

1970年代前後の社会情況

 

 戦前から盲学校、聾学校は義務化がなされていた。戦後、1947年学校教育法で、その他の障害者に対して「幼稚園、小学校、中学校又は、高等学校に準ずる教育を施し、あわせてその欠陥を補うために必要な知識技能を授けることを目的」とする規定が設けられた。しかし、就学猶予・就学免除制度により、多くの重度・重複障害児が教育を受けられない状況が続いていた。
 1956年に富山市で病院と学校が併設された高志学園、1966年に富山養護学校が建てられた。
 障害の軽い人は富山養護学校、重い人は高志学園と、障害の重い軽いで、学校を変えられた。この時、養護学校や高志学園では就職が難しくなるという理由で普通学校へ転校していく人が多かった。
 1970年代には社会運動が活発になった。公害、薬害など、多くの裁判闘争がおこなわれていた。その他に女性解放運動・学生運動・労働運動・部落解放運動・アイヌの運動などさまざまな運動体ができた。障害者運動では、全国障害者解放運動連絡会議(身体・知的・精神・難病・部落・在日)・全国青い芝の会連合会(脳性麻痺者の会)・全障研(共産党系:発達保障論)・障害連(社会党系)等が活動を活発にしてきた。レジュメにはないが、アメリカの自立障害者がCILといわれる自立生活支援運動を起こし、日本でも始める人が出てきた。DPIといわれる障害者インターナショナル運動も起きていた。
 これは、東京の地下鉄に乗車しようとしている写真だが、障害者一人に4~5人の介助者が関わっていた。今はこのようにする必要はないが、当時はこのようにしていた。

社会情況 1

社会情況 2

1970年代 駅の風景 1

1970年代 駅の風景 2

 

富山の障害者解放運動の歴史

 

 私は幼少期から、高志学園の寄宿舎で過ごしていた。小学部は五福小学校の分校ということで、五福小学校を卒業したことになり、そこの卒業証書を持っている。小学部を卒業したあと、富山養護学校の中等部・高等部とすすみ、そこを卒業した。その後、縁あって、福井の印刷会社で仕事を始めた。そこをやめて富山に戻り、富山でも印刷の仕事をしていた。その頃、吉田さんという人が「あおぞらの下、外に出よう」というスローガンで県下の障害者を集めて、「あおぞらの会」という活動をしていた。その吉田さんに「印刷を手伝ってくれ」といわれ、私もその活動に関わった。またその頃に、富山の障害者運動は、富山青い芝の会と全国障害者解放運動連絡会議北陸ブロックの活動があり、私は両方に関わっていた。
 1977年に、川崎でバス乗車拒否闘争があった。青い芝の会の富山と石川合同で、抗議行動をした。北鉄バス乗車拒否事件でも抗議行動をした。その後富山青い芝の会のめざすところや行動の違いで、分裂した。富山青い芝の会をやめ、「どろんこ作業所」を立ち上げ、運動体として「サンの会」を名乗った。
 1983~85年の富山市行政差別照会文章事件の確認会と糾弾闘争を全障連として闘った。当時、富山市生活保護課が「障害者は無謀な要求ばかりして来る」、「過激派とくっついて利用しているようだ」ということで、生活保護を不正受給しているのではないかという差別的疑念から、富山市と同じ、人口30万規模の全国の市に対して対策をどうしているかという照会文書を出して、問い合わせるという事件があった。この中に青い芝の会や部落解放同盟も記入されていた。この差別照会文書をめぐって、富山市が障害者差別をしたことに対して糾弾し、そのことを確認する闘争だった。
 この時に問われたことは、①障害当事者の主体性とは何か。②障害当事者の権利とは何か。③障害当事者の自己責任とは何か。④障害者解放運動とは何か。ということだった。
 1985年には、全障連富山大会を実行した。この大会で、①地域の人たちとの関係作りと拠点作り、そして、②「ともに生きるための実践と広がり」を課題とした。

 

 私は、1990年にアメリカに行く機会があり、アメリカの障害者と交流してきた。アメリカの障害者差別に関わる法律には罰則規定があるが、日本の法律にはない、今もなく、ひとつの課題になっている。訪米を契機に国連のNGO(反差別国際運動)の理事についた。理事として、マイノリティの中の障害者の人権に関わる活動をした。
 1991年、富山大学に車椅子を利用する障害者が入学し、バリアフリー化が進んでいない大学を改革するために非常勤講師になった。その期間に予算を獲得するのに苦労した。ずいぶん長く勤めたが、2015年に辞めた。

 

富山の歴史 1

富山の歴史 2

富山の歴史 3

 

全国青い芝の会の闘い

 

 私が70年代に関わった青い芝の会は、差別の根っこにある優生思想との闘いを課題にしていた。障害者を施設に収容する事に反対する。銭湯入浴拒否事件に抗議する等、障害者差別反対闘争が続いた。私は銭湯で裸のまま数時間、お風呂には入れず、風邪をひいてしまったことがある。
 1977年に「川崎バス闘争」があり、全国に広がった。北鉄バス乗車拒否事件もそのひとつだ。
 2016年に起きた相模原市「津久井やまゆり園大量殺傷事件」が象徴的だが、優生思想は今でも根強く残っている。
 
1977年の「川崎バス闘争」の映画をみてほしい。
    ① 障害者が車椅子から降りてバスに乗車すると、バスは停止したままになる様子。
    ② 車椅子の障害者をバスに乗車させない様子

バスに乗り込む

バスは動かない

バス乗車拒否

    ③ 道路に横たわる障害者 
    ④ 労働組合の幹部が青い芝の会のカメラマンにこんなことをやめろと恫喝している様子
⑤ 青い芝の会員がアピールしている様子
 この闘争の10年後ぐらいにようやく車いすをのせられるバスが導入されていった。

道路に横たわる障害者

労働組合員がカメラマンに恫喝している

青い芝の会からのアピール


   全国青い芝の会の行動綱領を紹介する。全部読むと長くなるので、項目だけ。
 1.われらは、自らが脳性まひ者であることを自覚する。
 1.われらは強烈な自己主張を行う。
 1.われらは愛と正義を否定する。
 1.われらは健全者文明を否定する。
 1.われら問題解決の道を選ばない。
「青い芝の会」の綱領をもとにした闘争で何が重要かという「告発」と「自己主張」である。
 「愛と正義を否定する」とあるが「人を愛することはだめなことなのか」という人がいるが、そんなことはない。「障害者は可哀想だから、施設にいた方がいいよ」というような正義感を否定するということ。

青い芝の会 1

青い芝の会 2

青い芝の会 3

 

全国障害者解放運動連絡会議の養護学校義務化阻止闘争

 

 養護学校義務化阻止闘争は、私にとっても、全障連にとっても大きな闘争であった。
 「全障連はすべての障害者差別を糾弾し、障害者の自立と解放のために戦う」という方針を表明した。
 これは即ち、第一には障害者差別、第二に優性思想に反対することを主眼としつつ、障害者個人の自立と解放のために活動することを表明した。ここでいう「解放」とは、「障害者への差別・偏見の常識を基盤とした健全者社会」から障害者を解放することを意味する。
 
障害者差別とは、

     ①能力主義差別
     ②異形に対する差別
     ③障害者に対する予断と偏見
     ④優生思想に基づく差別

 
 文部省前を中心に養護学校義務化阻止闘争をおこなった。一週間続けたが、残念ながら阻止できなかった。その時の映像を元に「養護学校はあかんねん」という映画を作成した。
 
「養護学校はあかんねん」の映画をみてほしい。 
(ゆっくりと養護学校の義務化ついての文章が上へスクロールする場面から始まる)
 

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)1

養護学校はあかんねん!タイトル

「養護学校はあかんねん」の最初の部分 1

「養護学校はあかんねんの」最初の部分 2

 

 楠敏夫 全障連事務局長からのアピール
 文部省前での抗議行動 「障害者差別を糾弾するぞ」「発達診断表粉砕」「就学時健診を粉砕するぞ」「文部省は義務化をやめろ」等のシュプレヒコール
 インタビュー
 長いので後は省略。

全障連 事務局長

養護学校義務化阻止闘争 文部省前

インタビュー

 
 私は、全障連の教育部門を担当していたので、文部省交渉と就学闘争と教育委員会交渉をになってきた。
 ・梅谷尚司くんの富雄中学校入学闘争(知的障害)
 ・金井康治くんの花畑東小学校転校闘争(脳性麻痺)
 ・石川重明君の飯田小学校転校闘争(未網児網膜症・知的障害)
 ・森本おりえさんの普通学校転校闘争(視覚障害)
 ・平本歩さんの人工呼吸器をつけて小中高の普通学校への闘争。
 個別の就学闘争、教育委員会との交渉をおこなった。それぞれの家庭に泊まって話し合うこともあり、家庭の事情にふれることもあった。

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)2

 

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の闘い

 

教育部門での交渉でのやりとりから
 
 勝ち取ったもの:パソコン受験・点字受験・0点でも普通学校へ。
 反対される理由:
 ①親に言わされているという見方。(本人の意思を認めようとしない)
 ②障害児が来ると他の子に迷惑だから。
 ③障害児が来ると勉強が遅れる。
・清水市の教育長の発言「この子は、教育の対象ではない。福祉の子だ」・・・
 優生思想がこのような表現に変形していく。
 

優生思想との闘い 
 <旧厚生省の発言と2000年以前の福祉施策>
 ・社協のヘルパー派遣・生活保護費の他人介護料 月4万円
 ・1977年厚生省交渉で「1日4時間以上介護の必要な者は、施設に入って下さい」と発言される。
 ・公的介護保障を求める運動
 (自薦ヘルパー制度と公的ヘルパー制度)
 ・地下鉄にエレベーターを付けさせる運動
 ・公共交通機関の乗車拒否(公共のバス・電車に乗せろ全国一斉行動)
 ・行政で障害者を雇用せよ(豊中市に視覚障害者・脳性麻痺者等の運動)
 ・大原闘争(視覚障害者の鉄道事故)
 ・生きる場・障害者の拠点作り
 ・公共の場のバリアフリー化
 ・「ワハハ本舗」差別ビデオ事件(視覚障害者のドミノ倒し、差別的方言のお国あて発言)
 ・「丸八真綿」差別事件(障害者・部落民に布団を売らない)
 ・飲食店やホテルの入店拒否
 今まで、様々な闘いをしてきた。課題・問題があれば、全国を飛び回り、相手に対して粘り強く交渉をして、障害者差別に反対してきた。しかし、制度の改善だけでは、優生思想を変えることに、なかなかならなかった。

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)3

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)4

 

今回のまとめ

 

2000年以前の障害者解放運動を振り返って

フリートーク 

 

質問者
 70年~90年代の闘いのありようを伺いましたが、平井さんが闘うことになるきっかけ、原点のようなものはなんですか。

 

平井さん
 小さいときから、ずっと高志学園の寄宿舎にいた。年2回だけ、家に帰ることができた。養護学校の中等部・高等部も寄宿舎生活だった。規則では土日に帰ることもできたが、家に車がなくて、「帰りたかったら、自分で帰ってこい」というような親だった。
 10歳の時、母親が脳腫瘍の手術を受けたとき、頭にげんこつの跡が残っていた。13歳の時、母親が病気でなくなった。、そのとき自分は涙が出なくて、泣かなかった。養護学校の先生にも父親にも「なぜ泣かないのか」とひどく責められたことを記憶している。今思えば、「親子の関係が今後どうなるのかな」という不安で一杯だったのではないかと思う。自分の記憶では、父親が母親をよく殴っていたので、今度は自分が殴られるのではないかという恐怖のようなものがあった。
 だから高等部を卒業したとき、親と完全に切れたいと思った。家には帰らない、富山にはいたくない。縁あって福井で働いた。すぐやめて、富山で住み込みで働いた。給料は25000円、同期の人たちは6万円だった。同期たちの半分にもならなかった。
 住み込みはいやなので、アパートを借りて一人暮らしを始めた。「給料を上げてくれ」と会社に言ったが叶わなかった。そのことを父親に話したら、「俺の扶養手当の方が多くもらえるから、働かない方がいい」と言われた。父は労働組合の委員長をやっていたので、このような冷遇に労働者として対応してくれるものと思っていたが、全然そうではなかった。生活保護費より安い給料を考えると、自分にとって会社で働くことは差別を実感する場だった。会社で働くことは、差別を日常的に実感するようなものだった。そんなことが、障害者解放運動を始める原点の1つになっているのかもしれない。
 余談になるが、父は戦争で中国大陸に行っており復員してきたと、後になって聞いた。もしかするとその戦争体験が、父が家で暴れたことと関係しているのかもしれない、と今は思っている。
 
質問者
 とても、普段聞けないようなプライベートな部分にまで及んで、話をしていただきました。ありがとうございました。

質問する

質問に応える平井さん 

 

2025/06/26

2025年度連続講座 第1回

第1回 案内チラシ pdf

 

 高齢者生存組合の2025年度 連続講座 第1回の「ACT地域精神医療を推進して」では、アイ・クリニック理事長の吉本博昭さんを話し手に迎えました。
 吉本さんは、富山市民病院・精神科を退職して2011年にアイ・クリニックを開院し、依存症等の心の病を抱える人たちが実際に生活を営む場を医師・看護師・精神保健福祉士等による多職種チームが訪問して支援するACT(包括型地域生活支援プログラム)を実践しています。
 当日、吉本さんには、富山で先駆的にACTの導入を進めてきた経緯や海外の精神医療の先進地域での取り組み等を、多数のスライドを使って話してもらいました。
 以下、その時の吉本さんの話のアウトラインを当日使用したスライドも交えて紹介します(スライドをクリックすると画像が拡大します)。

高齢者生存組合からの挨拶

吉本博昭さん 

 

なぜACTを始めたか

 

 精神疾患それ自体は成人の数人に一人が発症する「ありふれた」病気であるにも関わらず、日本では心の病を抱える人たちへの差別的な扱いや精神科病棟への長期収容が続いている。そうした状況に対して、「WHOの勧告(1968年)」や「OECDの分析と提言」などでは、「質の高い精神医療は病院での治療から、地域でのケア体制を充実することが必要」という今後の精神医療の方向性が示された。
 また、富山市民病院でACTを立ち上げた2007年に、「第14回日本精神障害者リハビリテーション学会」が富山で開催され、「患者さんが望むものは、住んでいる町や村での、あたりまえの生活だ」と訴える富山大会宣言が採択された。その宣言や「WHOの勧告」、「OECDの分析と提言」の理念に基づき、現在までACTを続けている。

WHOの勧告から

OECDの提言から

富山大会宣言(1)

あたりまえの生活が

 

アイ・クリニックを始めた経緯

 

 2005年に、富山市立病院の精神科病棟のベッド数を半減するプランが発表され、同時期に、ACTの研究プロジェクトを立ち上げ、翌2006年、試行。2007年に市民病院でACTを開始した。

富山市民ACTの立ち上げの経緯

富山ACTの実施システムの検討

ACTの実施概要(1)

富山市民ACTの紹介パンフから

 市民病院でのACTの経験をふまえて、2011年、現在の場所にアイ・クリニックを開院した。開院時に町内の人たちから、精神科病院を開院することを思いとどまってほしいとの要望があったが、何度も話し合い、なんとか開院できることになった。開院後、町内の人たちから、「心配は杞憂だった」、「開院してもらって良かった」との評価のことばをいただいた。
 アイ・クリニックでのACT(iACT)の特色としては、日本で初めてアルコール依存症の治療を「アウトリーチ」(訪問診療)方式で行っていることや、他の総合病院の精神科との連携がある。自分としてはACTの普及を願っているが、ACTの活動に対して現行制度では保険診療点数が付かない等、いくつもの課題がある。

iACTの立ち上げの経緯

iACTについて

iACTと総合病院精神科との連携

ACTは発展できるか

 

オーストラリアとイタリア訪問

 

 2007年10月末、精神科の治療が国立の総合病院で行われているオーストラリア・メルボルン市を訪ねて、現地での精神保健改革(1992-)の取り組みを知ることができた。イタリアでは一部の総合病院の精神科を除き、精神科病院が廃止されたが、イタリア訪問では、それに至るまでの精神病患者の長期収容所の閉鎖的な実態や、精神科病院の解体を推進したフランコ・バザーリアの「自由こそ治療だ!」という理念の下に精神疾患をもつ人たちへの医療・ケアを実際に「地域医療」として推進している様子に触れることができた。

なぜ、オーストラリアなのか

NMHSの成果

なぜ、今イタリアか

自由こそ治療だ!

 

今後の地域精神医療に望むもの

 

 近年、地域包括ケアシステムを心の病をもつ人たちにも対応させよう、という「にも包括」ということがよく言われるようになったが、ACTの当面の課題として「にも包括」の推進・具現化ということがあると考えている。2022年の「精神保健福祉法」の一部改正で「にも包括」が正式に規定されたが、今後、富山市版「にも包括」システム構築へのロードマップの作製・提示が求められている。

iACTの問題点とは

「にも包括」とは

精神保健法改定「にも包括」導入

富山市「にも包括」を提示

 

 ※ホームページに掲載するに際して、当日の吉本さんの話とスライドの順序を一部変更。なお、当日使用されたスライド全体と会場で資料として配布したACTに関するパンフレットの閲覧は、以下をクリック。

 

  

 第1回 吉本さんのプレゼンテーション pdf資料 176ページ     

 

 第1回 吉本さんのプレゼンテーション当日印刷された資料 30ページ

  

 第1回 資料 ACTガイド

  

 アイ・クリニックの紹介
「最新の Clinic News:」欄の2025.6.15に「吉本医師がサンフォルテでの講演で使用したスライドのファイルをダウンロードができます」のお知らせ

 

フリートーク

 

 初めに、会場から、「今後、富山でACTを推進するための課題としてどんなことがあるか」と問いが出された。
 その問いに対して、吉本さんは次のように答えた。
 「ACTには保険診療点数がないので、病院の経営上は不利。しかし、ACTの活用によって県や国の精神疾患に対する医療費の総額は、入院中心の場合よりも安くなる。一方、ACTを利用すると入院に代わって通院による治療の回数が増えて一人あたりの治療費が高くなるので、それに対して監査が入り、病院の経営が成り立たなくなる、という問題がある。また、現在対応できる人数が限られているので、今後「にも包括」が富山で具体化されることで、もう少し自分たちが対応できる人数が増えるのではないか、と考えている。それに向けて声を上げることが大切だと思う」。
 「第4回の話し手の惣万佳代子さんは、私の地元の中学校の後輩だが、高齢者も障害者も子どもも同じ場所でケアできる仕組みとして『このゆびとーまれ』を日本で初めてたちあげて、それが制度化されるまで頑張った。私はまだもう少し若い頃に、精神疾患をもつ人たちが地域で暮らせるようになることを願ってACTを始めたけれども、残念ながら、そのことが今でもなかなか実現できないでいるが、そうした人たちが誰でも地域で当たり前に生きられるようにしていくことが大切だと思っている」。

   別の参加者からは、「サ高住」で暮らしていた母親の認知症が進んだときに、施設のケアマネから、「もはや介護の問題ではなく、医療が必要だから病院へ移ってほしい」と言われて、不本意ながら地元の総合病院の精神科病の閉鎖病棟に入ることになり、そこで薬で大人しくされて、最後は老人病院で亡くなったことが語られた。そのように、「にも包括」とは正反対に、精神科病棟が認知症の高齢者の「収容施設」化している現状に対して、富山でACTを推進してきた吉本さんとしてはどうしたらいいと考えているか、という質問があった。
 その質問に対して、吉本さんは次のように答えた。
 「認知症になることと精神病になることとは、本当は全く次元の違うことだ。確かに、認知症の高齢者の興奮状態がひどいときに、ある特定の条件の下で精神科病院で対応することは必要だけれども。そうでなければ、病院以外の場所で十分対応できることのはずだ。結局、高齢者施設では対応できなくなってそこから精神科病院に移った後で戻る場所や筋道がちゃんと確立されていないというか、施設と病院の連携をどうするかということではないか。ただ、ACTは体が元気な人を対象にしていて必ずしも万能ではないので、そのようなACTの限界を超えるような仕組みが必要だろうが、そこをどうするかが難しいところだと思っている」。
 
 また、第1回の「フリートーク」では、ある参加者から、「私は高岡市でケアマネをやっていて、アルコールやギャンブル依存症の人たちを担当しているが、そこでいろいろな問題が連続で起きて困っていて、ACTのような仕組みが私の地域にもあればいいと思って今日の話を聞いていた。このACTの活動が広まることを強く願っている」という発言もあった。
 
 「フリートーク」の最後に、第3回と第4回の話し手の平井誠一さんから、次のような質問と発言があった。
「私は自立生活支援センター富山を営んでいるが、そこの利用者の中には、身体障害者か知的障害者かに関係なくこだわりの強い人がいて、相談活動をするのがとても大変なのだが、そうした人たちに対応するポイントはどんなことかとよく思う。障害者は、『身体』、『精神』、『知的』、『難病』の4障害に分けられているが、相談者の中に重複障害の人も多くなってきている」。
「私が手術で入院して退院するときに、担当のケアマネがいないと退院できないということを言われて、慌ててケアマネを探したのだが、自分のような障害者の問題を包括的に考えられるケアマネがなかなかいなくて困った。それには、制度の問題とスタッフの在り方など、いくつもの課題が重なっていると考えている。この後、7月と9月の2回にわたって話す機会があるので、その時にもっと詳しく話したいと思っている」。
 平井さんのその質問と発言に対して、吉本さんから以下のようにコメントがあった。
 「こだわりの強い人に対するのは、精神科医でも難渋している。強迫症状なのかどうかは分からないが、基本はまず話を聞いてあげること。『この人は私の話を聞いてくれる人だ』と認識するまで我慢することが大切で、最後まで話をちゃんと聞いてあげるとそれで気が済んで、次からは話が短くなることが多い。逆に途中で相手の話を打ち切ると、また始めから聞くことになって、もっと時間がかかるし、問題が解決できなくなる」。
 「ご指摘のケアマネの問題だが、現在の医療・福祉の仕組みは『完成形』ではないので、おかしなところはおかしいと声をあげていくことが大切だ。行政機関の役人は机上で制度を考えていて、実際に起きる様々な問題を検討していない。『急がば回れ』という気持ちで考えるしかないのではないか。平井さんも僕も70歳を超えているから、そんなに先はないけれど、焦ってみてもしょうがないかなという風に思っている」。

 

第1回の連続講座の締めくくりとして
 
 最後に、第1回の進行役は以下のような発言で集いを締めくくった。
 「国がつくっている制度は一見いいものに見えるものがあるが、実際に動くスタッフが不十分だったり、予算が不足したりして、実際には必ずしもそうなっていない。そうした中で、吉本さんが富山で進めてきたACTの営みは、精神障害のある人も地域で当たり前に暮らしていけるような社会を求めるものだと思うが、それは、もちろん高齢者も含めてどんな人にもあてはまることのはずだ。
 吉本さんも言うように、みんなで声を上げていくことはとても大事だと思うので、今日の集いで吉本さんから指摘された問題を、今後もまた皆さんと一緒に考えていきたい」。

吉本さんに質問する平井さん

会場は満席

 

2025/06/04

25年度企画 オープニング

 

 2025年度企画の「オープニング」の 「戦後80年バトンをつなぐ  未来につなぎたいもの」では、劇作家・演出家で社会批評家の菅孝行さんをスピーカーに迎えました。
 今回、菅孝行さんは、17世紀の「30年戦争」後に始まった国民国家を単位とする近代世界の枠組み自体が揺らいでいるという大きな視野に立って、日本の戦後の社会運動の軌跡から現在の私・たちが何を受け継ぎ、何を未来へと手渡すかをめぐって語りながら、そうした過去の闘いの中で生み出された人々の相互扶助や自治の経験を日本社会の中で生き難い人たちを〈歓待〉するアジールを生み出すことへとつなげることが求められているはずだ、と強く訴えていました。
 菅孝行さんの話の後、休憩をはさんで、約1時間、菅さんと会場の参加者の間で自由に語り合う「フリートーク」を行いました。
  (「オープニング」での菅さんの話の概要については、レジュメ参照)
 

※ 菅さんに富山に来ていただいたのは、
 2018年「米騒動100年プロジェクト SCENE7」
 2019年「TALK & DISCUSSION 私の「戦後史」につづき、今回のオープニングは3回目です。

大いに語る菅さん

会場

 

 

フリートーク
 
 「フリートーク」では、25年度企画の第2回・第3回のスピーカーの「自立生活支援センター」の平井誠一さんから、次のような発言がありました。
 「地域で生きる障害者に介護者を派遣する制度がなかったので、70年代の障害者解放運動ではそれを要求する運動を展開して、介護人派遣制度も含めていくつもの制度を獲得してきた。しかし、現在、そうした闘いの歴史がきちんと継承されていないことで、逆に制度がすでにあること自体が、障害者の運動をさらに進める上での障壁になっているように思う。今日の菅さんの話を手掛かりにして、今後の新しい運動のあり方を考え合いたい。」
 また、別の参加者からは、「この数年間、コロナ禍で人々が交流できなかったことが、社会運動の現状に大きく影響しているのではないか」という意見もありました。
 今後、「フリートーク」での論議も含めて「オープニング」での話をパンフレットにする予定です。

 

菅さんと平井さん

参加者からの発言

連続講座:スケジュール

  

1回 6月15日(日) 吉本博昭さん     306号室
ACT地域精神医療を推進して 
2回 7月13日(日) 平井誠一さん Part1  305号室
自立生活支援センターを開設して 
3回 9月14日(日) 平井誠一さん Part2  305号室
若い人たちに伝えたいこと
4回 10月12日(日) 惣万佳代子さん     305号室
若い人たちに伝えたいこと
5回 11月16日(日)             305号室
再び話し手のみなさんに集まってもらい
「バトンをつなぐ―未来につなぎたいもの」
について語りあいます。

 


場所:サンフォルテ富山市湊入船町6-7
時間:午後1 時半~ 4 時参加費+資料代1000 円

 

 

今回お招きする三人は、ずいぶん前になりますが2012年の私・たちの企画でお招きしました。

 2012年11月18日 ラウンドテーブル: 「滑川『一家孤立死』事件につまづく 私たちの眼/耳は 何を視て/聴いているのか?

 

「すべての生の無条件の肯定」を

 

 2018 年開催の「米騒動100 年プロジェクト」 から産み出された「高齢者生存組合」は、高齢者が 抱えている〈生きがたさ)からの解放を求め、相互 の結びあいの力で社会と向き合う生存組合です。

 1970 年、アメリカでグレイパンサーを名乗る運 動体がひろがりました。
全米で6 万人、130 のネットワークにひろがっ たグレーパンサーは、エイジズム(年齢差別)からの 解放をかかげ、社会を変えようとしてきました。彼 ・彼女らは「老人としての誇り」を高らかに謳い、 「年をとることに価値を見いだす社会」を目指しま した。彼・彼女らの活動や理念は、今のこの困難な 時代だからこそ、あらためて見直すべきことだと考 えています。

高齢者生存組合リーフ表
高齢者生存組合リーフ裏
高齢者生存組合 ご挨拶
もうたくさんだ行進!
高齢者生存組合を!
とめるぞ!志賀も川内も!
ブラック企業 ゼロにしろ!