高齢者生存組合

2025年度 企画 報告
「バトンをつなぐ  未来につなぎたいもの」

2025/12/05

4回、5回、そして特別編 報告

 

第4回 10月12日 惣万佳代子さんを迎えて 案内

第4回 同日 資料

第4回 ニューズレター 3月1日発行

  

第5回 11月16日  案内

特別編 12月14日 戦後80年を問い直す 案内

 

 現在 ニューズレター制作中 今しばらくお待ちください。

  

第4回で 惣万佳代子さん

特別編で 平井誠一さん

 

2025/12/14

2025年度連続講座 第3回 報告

第3回 案内チラシ pdf

 

 私・たち「高齢者生存組合・富山」は、高齢者が抱える〈生きがたさ〉からの解放を求め、相互の結び合いの力で社会と向き合うことを目指す生存組合です。
 高齢者生存組合の2025年度連続講座「バトンをつなぐ―未来につなぎたいもの」の第3回(9月14日(日))の集いでは、「若い人たちに伝えたいこと 福祉サービスで障害者差別は解消されたのか?」と題して、前回に引き続き、「自立生活支援センター富山」の平井誠一さんを話し手に迎えました。今回、平井さんは、前回ではあまり触れなかった90年代以降の平井さんの動きや、現在、平井さんが自分が利用する福祉サービスに対して感じていることを等を話してくれました。
 以下、その時の平井さんの話とその後の「フリートーク」での論議を紹介します。

平井誠一さん

会場のようす

 

平井誠一さんの話から

 

「反差別国際行動」を通じて海外の障害者や被差別少数民族と出会う

 

 前回の平井さんの話でも触れられていましたが、1991年に車イスを使用する富山養護学校のの卒業生が富山大学に入学しました。当時は、経済学部の校舎以外には大学内にエレベーターはなかったそうですが、その学生が入学したことを機に、富山大学では大学の「バリアフリー化」の推進に向けて、エレベーターや障害者用トイレの設置を順次進めました。そうした障害者の受け入れに向けた「大学改革」の予算の獲得のためには、大学側に障害をもつ教員も必要だということで、平井さんは教育学部の非常勤講師になることを大学から依頼されて、その後、25年間、「人権と福祉」というテーマで授業を行ったということでした。90年代以降、平井さんはそうした富山大学での「バリアフリー化」と併せて、国際的なレベルでの障害者解放運動や被差別者の運動にも関わってきました。
 1988年、日本の「部落解放同盟」の呼びかけによって、世界中からあらゆる差別とマイノリティの権利の回復に向けた国際的な組織として「反差別国際行動」(IMDR)が結成されました。その後、93年に、反差別国際行動は、日本に基盤をもつ人権NGOとして始めて国連の協議資格を承認されました。反差別国際行動が結成された当時は、まだ、黒人を白人居住地から隔離・排除する南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策が大きな国際問題になっていた時期でした。反差別国際行動ではそうした問題の他、スリランカや南米の少数民族に対する差別問題、また、かつてジプシーと呼ばれていたシンティ・ロマの人たちの人権問題にも深く関わっていたということでした。平井さんが反差別国際行動の理事になった1990年に、平井さんは米国を訪問して現地の障害者団体との交流を行いましたが、その時に、「日本はコンピュータをたくさん製造して海外にも輸出しているのに、なぜ日本の障害者はそれをもっと活用してパソコン通信をやらないのか」と強く言われたそうです。そのことをきっかけに、平井さんは帰国後、富山大学の教員や学生の協力を得て、パソコン通信を始めたということでした。
 なお、平井さんが訪米した1990年は、ちょうど、罰金等の具体的な罰則を課して、雇用や交通機関、公的サービス、通信といった社会生活のあらゆる場面で障害者への差別的な待遇を禁止する「障害をもつアメリカ人法」(略称ADA法)が制定されたばかりの頃でした。平井さんはADA法のことを知って、そうした罰則規定を伴わないために、実際にはほとんど効力を発揮しない日本の人権に関わる法律との違いを強く感じたそうです。その一方で、たぶん、ADA法の罰則を逃れるためか、平井さんが米国で泊まった古いホテルには一応スロープが付けられていたそうですが、そのスロープが45度の急斜面で使うのが怖くて、「こんなものをどうやって車イスで昇り降りできるのか」と思ってしまったということでした。

 東西ドイツ統一後、ネオナチの活動が活発になり、ドイツでは、1995年に障害者の人たちがネオナチに襲撃されて、駅のホームや階段から突き飛ばされるという事件がひんぱんに起きていたそうです。そうした状況の中、「一度実際にドイツに行ってみよう」ということで、平井さんは全障連としてドイツを訪問して、フランクフルトやケルンの自立生活支援センターのメンバーとの交流を行った他、キリスト教系の団体が運営する障害者の就労施設を訪ねました。95年のドイツ訪問では、平井さんたちは、ドイツのシンティ・ロマの人たちと一緒に、ナチスドイツ時代に障害者を精神病院の地下室に集めて毒ガスや薬物注射で殺害した「ハダマール障害者強制収容所」の跡を訪ねたそうです。そこでは障害者だけではなく、シンティ・ロマの人たちや、戦争で負傷して「用済み」とされた傷痍軍人も多数殺害されたということでした。ハダマール強制収容所はハダマールの街の市街地にあったのですが、地元の人たちが強制収容所の存在に気が付かないように、そこで殺害された人たちの死体を焼却する際に匂いが外に漏れにくい構造になっていたということでした。

 


 ハダマール強制収容所については、「灰色のバスがやってきた―ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置」(草思社・1991年)という本が日本でも出版されていますが、その本のタイトルにある「灰色のバス」というのは、元々は郵便物を集めるための車両だったのですが、それに障害者を乗せてハダマール強制収容所に連行したという暗い歴史があります。ハダマール強制収容所だけでも、1万人近い障害者が殺害されたということでした。また、ナチスドイツによって、約50万人ものシンティ・ロマの人たちが強制収容所で殺害されています。

 

 

   

 

  

 

 

 

 平井さんは、90年代初頭に、ナチスドイツがフランス・ストラースブール市に建設した「ナッツヴァイラー強制収容所」の跡地も訪ねています。その時に、強制収容所に収容された人たちの髪の毛で編んだ靴下やセーター、また、そこで殺害された人たちの死体の脂肪から作ったという石鹸が展示されているのを見て、大きな衝撃を受けたということでした。なお、ナッツヴァイラー強制収容所も含めて、ナチスドイツ時代の強制収容所のほとんどに人体実験用の解剖室が置かれていたそうです。

 

 

  

 

   

 

  

 

 

  

 

   

 

  

 

 

その他にも、平井さんは、1993年にフィリピンで開催された反差別国際行動の総会に参加した際に、現地の障害者や少数民族の人たちと交流を行っています。その時のフィリピン訪問では、平井さんは、スペイン植民地時代に建設されて、太平洋戦争中の日本のフィリピン占領時代に日本軍の司令本部や憲兵隊本部として使用されていたサンチャゴ要塞跡を訪ねたということでした。1945年2月末の米軍によるマニラ解放後、サンチャゴ要塞の地下牢獄から数百人ものアメリカ人やフィリピン人の遺体が発見されたそうです。また、サンチャゴ要塞の地下には「水牢」があり、近くの川の水を流し込んでそこに閉じ込めた人たちを溺死させた後、川に死体を流す仕組みになっていたということでした。

 

 

 

そのように、今回の集いでは、平井さんが、戦争の問題と障害者に対する差別・蔑視や排除の問題を不可分のこととして考えようとしていることが、よく伝わってきたように思います。

「支援費制度」の創設から22年後の現状を捉え直す
 

 「措置から契約へ」を謳い文句として介護保健制度が導入された2000年から、障害者福祉制度も大きく変わってきましたが、とりわけ、制度の在り方の画期的な転換だったのが2003年に導入された「支援費制度」でした。支援費制度では、障害者が自分に必要な介護サービスの種類・利用時間や介護サービスの事業者を選択・申請して、市町村自治体がそれを適切だと認めれば「支援費」が支給される、という仕組みでした。それによって障害者介護サービスに対する公的支援の金額が大幅に増えることで「介護バブル」状態になって、地域で暮らす障害者に介護者を派遣する自立生活支援センターの中には3階建てのビルを建てるところも出てきたそうです。
 しかし、同制度の導入による障害者介護サービスの予算の増加が当初、国が想定していた範囲を大きく超えたということで、原則として介護サービス利用料の1割の負担を障害者に求めることを定めた「障害者自立支援法」が2005年に制定され(発効は翌2006年)、支援費制度は開始後わずか3年で終了します。その後、障害当事者や障害者運動団体から、障害者自立支援法に対する批判や同法の廃止を求める声が高まった結果、2010年の同法の改正(2012年発効)では、それまでの定率負担(応益負担)から、収入ごとの負担能力に応じた負担(応能負担)に制度が変更されました。その後、2013年に障害者自立支援法は廃止され、それに代わり、「障害者総合支援法」が制定されました。
 なお、障害者自立支援法を廃止し、新法を制定するに際して、政府の「障がい者制度改革推進会議」の下に設置された「障がい者制度改革推進会議・総合福祉部会」(総合福祉部会)」に多数の障害当事者や障害者団体のメンバーが参加して、新法の理念や方向性について論議を重ねました。そこでの論議は、最終的に2011年8月末に「障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言-新法の制定を目指して-」(骨格提言)という報告書に結実しました。しかし、残念ながら、OECD諸国の平均値並みの福祉予算の増額や、市町村間のサービス格差の解消といった「骨格提言」での要求の多くは、障害者総合支援法には盛り込まれませんでした。
 そのように、2000年代に入って、障害者介護サービスをめぐる法律や制度が何度も変更されてきた間に、日本の福祉制度の根幹に関わるような大きな出来事がいくつも起きています。前回の平井さんの話でも、大手の介護人派遣会社コムスンが雇用するヘルパーの人数をごまかす虚偽申請や介護報酬の不正受給を行っていたことが発覚した、2007年の「コムスン事件」に触れていました。その事件は、介護保健制度の導入まで公的なサービスとして、主に行政による「措置」や少数の事業所で行われていた介護人派遣事業に、営利を目的とする企業が参入することになったことの矛盾を象徴するものだったように思います。
 「共生社会」や「バリアフリー」ということばが盛んに言われるようになった状況の中で、2016年7月、神奈川県相模原市の知的障害者の入所施設「津久井やまゆり園」で入所者の障害者19人が殺害され、26人が重軽傷を負うという「相模原障害者施設殺傷事件」が起きています。その事件の背景として、「意思疎通できない重度な障害者は不幸であり、社会に不要な存在であり、『安楽死』させるべきだ」という極めて差別的な障害者観が加害者の元施設職員にあったことが報道されています。事件後、そうした考え方に共感したり、障害者や高齢者の「安楽死」・「尊厳死」を肯定したりする書き込みがネット上に飛び交っていることが、マスコミで取り上げられていました。
 そうしたネット上の書き込みのレベルを超えて、2019年2月、NHKは、重い神経難病を患う日本人女性がスイスの「安楽死施設」で薬物を使って自死するまでの過程を取材したドキュメンタリー番組『彼女は安楽死を選んだ』を放送しました。それに対して、「公共放送でそうした番組を流すことは、『安楽死』の肯定や『合法化』につながるものだ」として多くの人たちが批判や懸念の声を上げました。また、2019年11月末には、京都で、医師と元医師の2名がALS患者の女性から金銭的報酬を受けて彼女に薬物を注入して「嘱託殺人」を行う、という事件が起きています。
 そのように、相模原障害者施設殺傷事件の後、「社会に不要な存在」だと見なされた人々の抹殺を肯定する「優生思想」的な差別意識が蔓延するとともに、そうした行為を犯すことに対する歯止めが弱体化していることに対して大きな危機感を抱いているということを、平井さんは今回の集いでも改めて強く訴えていました。

介護事業者が利用者を選別する時代に

   

 現在、人手不足のために廃業する介護人派遣事業所や高齢者のグループホームの数が増えているそうです。市町村自治体レベルでも介護保険事業所が無くなるところが出てきていて、「介護保険料を払っているのに、なぜ介護サービスを使えないのか?」という不満を訴える人たちがたくさんいる、ということでした。
 介護保険制度ができた当初は、どんな利用者でも受け入れていましたが、平井さんによれば、最近では介護事業者側が手がかかって面倒だと判断する利用者を拒否するようになってきていて、自宅での介護サービスやデイサービスを利用できないということが起きているそうです。とりわけ、「コロナ禍」以降、そうした傾向が強くなってきているということでした。介護保険制度が始まった頃は、「施設から地域への移行」ということがよく言われていましたが、今では逆に、施設では扱いにくい人たちを地域へ出すという皮肉な状況になっているということでした。そのことの背景には、やはり、施設で働く人たちを集めることができないということがあって、少し前であれば、派遣ヘルパーよりも介護施設で働く方が仕事がラクだと言われていましたが、現在、施設にも若い人たちが来なくなっています。
 かつては障害者は「お客様」で、「私たち障害者が事業者を選ぶんだ!」と言っていましたが、今ではそんな状況ではなくなっているということでした。また、重い身体障害のある人たちを対象とする「重度訪問介護制度」を利用する際に、以前なら1回で2~3時間の枠でも利用できたのに、最近では、そうした短時間の利用では採算が取れないということで、「1回で8時間以上、利用するなら介護に入りますが、2、3時間なら利用を受け付けません」と言われるようになっているそうです。また、24時間の介護人派遣事業を行っている事業所でも、夜間なら利用者が寝ていることが多くてちょっとした介護だけすればいいということで、特に高齢のヘルパーから、「夜の時間帯にだけ入りたい」と言われることがよくあるそうです。
 平井さんは介護サービスの利用のことで相談を受けているそうですが、その人は悪性リンパ腫で退院後は介護サービスを利用することを希望していますが、どこの介護事業所でも受け付けてくれないということでした。本人は胃ろうで栄養を取っている上に吸痰も必要で、さらに意識障害があって意思疎通がうまくできないときがあり、会話をしていても途中で意識を失ってしまうことがあるそうです。介護事業者からサービスの利用を拒否される原因は、入退院を繰り返すからということでした。そのように、現在、介護事業者は、採算を取るために利用者を囲いこもうとする一方で、人手不足の中で事業所の運営を成り立たせるために「自己防衛」するようになっていると、平井さんは感じているそうです。

一見、便利なようで障害者や高齢者が生きにくい社会に

 

 今回、平井さんは、障害者として介護保険制度のサービスを利用する経験から感じていることを話してくれましたが、現在、平井さんは日常生活で必要なことをしてもらうためにヘルパーに来てもらっているそうです。しかし、同じヘルパーを利用している人たちの話では、「買い物は自分でやってください」とか、「食事は作りません」などとサービスを拒否するような言い方をされることがあるそうです。また、平井さんが利用している介護人派遣事業所のヘルパーで最高齢の人は80代で、若い人でも50代だということで、60~70代の年齢の人が一番多いということでした。
 少し昔であれば、店の人が配達の際にちょっとした用事をしてくれたり、近所の人が来てくれて一緒に買い物に行くようなことがあったと思いますが、結局、障害をもつ人たちの多くは地域での人間関係がヘルパーだけになっていて、福祉サービスを受けるという形でしか地域社会の中で生きていないことを、平井さんとしては物足りなく感じているということでした。最近、同じ地域で障害者と健常者がともに生きていることが「共生」だ、という言い方がよくされているそうです。それに対して、平井さんは、そうであれば、かつて障害者を隔離・収容した「コロニー」では障害者と健常者の職員が同じ空間で生活していたから、それも「共生」だということになるのか?と、思ってしまうということでした。
 なお、この間、福祉の領域では「社会資源の活用」ということがよく言われるそうですが、それは具体的には、地域のボランティアや子ども食堂のようなものを指しているようです。そのように、公的な福祉サービスをできるだけ地域の「社会資源」で置き換えることで、政府は福祉予算の削減を図ろうとしているのだろうけれども、今の地域社会にそんなものが本当にどこまであるのか、平井さんとしては疑問に思わざるを終えない、ということでした。
 現在の介護保険制度ではヘルパーが付き添う形での外出支援サービスはないのですが、富山市では障害者の外出のための支援制度として「移動支援事業」があります。しかし、平井さんによれば、実際に病院での受診の際に「通院等介助」という制度を使おうとすると、病院内でトイレの介助をするとか、診察室に同行するのでなければ、病院での待ち時間にヘルパーが障害者と一緒にいてもその分の報酬はないので、ヘルパーは病院に同行したがらないそうです。また、最近、バス等の公共交通機関では乗降用のスロープが車内に用意されていて、車イスの障害者でも利用できるようになってきていますが、スロープの出し入れを面倒がって障害者を乗せてくれないバスの運転手が今でもいるということでした。そうでなくても、公共交通機関の利用者が少なくなるにつれてバスや電車の本数が減らされてしまって、利用しにくくなっています。
 また、エレベータが設置されていない駅でも、駅員がいれば手を貸してもらって車イスでも電車を利用することもできますが、この間、JRや地鉄では無人駅が増えていて、無人駅の近くに住んでいる車イスの障害者の中には、わざわざ駅員がいる遠くの駅まで行って電車に乗っている人もいるということでした。障害者や高齢者のための「福祉タクシー」もありますが、「乗降介助料」として一回乗るのに千円、降りるのに千円かかるので、往復で利用すれば、運賃とは別に、それだけで4千円もかかることになります。
 最近のスーパーやコンビニではセルフレジの機械をよく見かけますが、高齢者や障害者にとって、セルフレジを使って自分で支払いをするのはけっこう大変なことです。その他にも、セルフ給油方式のガソリンスタンドが増えていますが、その場合、一度車から降りて自分で給油して支払いの操作もしなければならないので、障害者の立場からすれば、車に乗ったままで給油してくれるスタッフのいるガソリンスタンドをもっと増やして欲しい、ということでした。また、このところ、街中からコンビニや銀行が無くなってきていて、ちょっとした買い物やお金の出し入れが不便になっているので、平井さんとしてはそのことも気になっているということでした。

「高齢障害者」に無理解な医師やケアマネに対する疑問を抱く

 医療法の改正により、今年2025年4月から、訪問診療等で継続的に診察を行うとともに必要な時に専門の医療機関とつなげて、ケアマネとも連携する「かかりつけ医」が制度化されました。しかし、平井さんのような「高齢障害者」に適切に対応することができる地域の町医者のかかりつけ医がなかなかいなくて、探すのに苦労しているそうです。以前、関わっていた人のかかりつけ医が、「こんな治療は障害者には無理だ」と一方的に決めつけて治療しないということがあって、担当する訪問看護師もそれはおかしいということで、一緒にかかりつけ医を変えようとしたのですが、邪魔が入ってなかなかスムーズに行かず、大変な思いをしたということでした。かかりつけ医が障害者や高齢者に理解のある場合はいいが、そうでなければ、そのように利用者にとってマイナスに働くこともあるということでした。
 現在、平井さん自身も含めて65歳以上の障害者が増えているにも関わらず、ケアマネの中には、「障害者のことは分からない」と平井さんに面と向かって言う人もいるそうです。平井さんとしては、「分からないからこそ、そこをがんばってやって欲しい」と思うのですが、どうしても「分からないからやりたくない」ということになってしまうので、そのようなケアマネとも何とか一緒にやりながら、ケアプランを考えているということでした。平井さんは、病院で人工関節の手術をするまでは、ケアマネに頼らずに「セルフプラン」方式で自分の介護サービスの利用計画を立てていましたが、手術後、「退院するなら、ケアマネを付けてください」と、病院から強く言われて、やむなくケアマネを探すことになったそうです。しかし、それはどうも、平井さんのことを配慮したというよりも、退院時のカンファランスにケアマネが同席することで病院の診療報酬の点数が加算されるということがあって、そのように言ったのではないかということでした。
 日本の医療・福祉制度では、どうしても障害者や高齢者は「支援される側」で、ヘルパーやケアマネ、施設の職員は「支援する側」という構図になってしまって、ともすれば、「支援する側」が一方的に介護サービスを決めることになりがちです。平井さんの知人で、幼いころに「森永ヒ素ミルク事件」で障害を負って、現在60代後半の人がいます。その人は、誤嚥性肺炎になって3か月間入院している間に歩けなくなってしまったのですが、病気が治って退院するときに、「自宅での生活は無理だから、施設に入った方がいい」と言われてしまったそうです。もしかしたら、平井さん自身もいつか高齢で歩けなくなるかもしれないけれども、その時に、そのように一方的に「施設に行け!」と言われても簡単に認めるわけにはいかない、ということでした。
 なお、最近、介護サービスに対して何か苦情や困りごとがあれば、サービスの利用者がケアマネに言えばいいということになっているけれども、実際にはケアマネが何でも問題を解決できるような体制にはなっていない、というのが平井さんの率直な思いだそうです。そのように、ケアマネがサービス利用者の苦情を何でも受けとめればいいと言われる一方で、そのことで行政が本来果たすべきことをせずに責任逃れをしてしまっているのではないか、と平井さんとしては危惧しているということでした。

自分なりの仕方でデイサービスを利用する

 今回の集いの最後の方で、平井さんは、認知症の診断テストで有名な長谷川医師が、「これまで自分は認知症の人にデイサービスの利用を進めてきたが、自分が認知症になってデイサービスに行ったら、ちっとも面白くなかった」と言ったというエピソードを紹介していました。そのように、医師やケアマネは、本人によかれと思ってデイサービス施設等の介護サービスの利用を進めるのだけれども、実際にはサービスの押しつけになっていることもあるのではないか、ということでした。とりわけ、それまで介護サービスを利用していなかった高齢者に対してサービスの利用を促す際に、本人にとってどのようなサービスが良いかを専門職の人たちが勝手に判断して決めることになりがちではないか、と平井さんとしては感じているそうです。
 人工関節の手術をして病院を退院した後、平井さんは身体の不具合で自宅の風呂が使えなくなったので、退院後に入浴のできる高齢者用のデイサービス施設を利用することになりました。最初の内は、週2回、そこに行ってテレビを見ながら体操をした後で入浴して、昼食を食べてから、体操・塗り絵・おやつ等の時間があり、送迎時間を待つ、というパターンを繰り返していたそうです。しかし、それだけでは時間を持て余してしまうので、施設の責任者にパソコンを持ち込んで仕事をしてもいいかと訪ねたところ、それは別にかまわないという返事だったので、平井さんは途中からパソコンを持参して、デイサービスに通っていたということでした。
 また、デイサービスの営業時間内であっても早く帰ってもいいと言われたので、その後はそのようにしていたそうです。いろいろと制約のある中で、そのように、平井さんとしてはできるだけ自分なりのやり方でデイサービスを利用するようにしていたということでした。
 平井さんは、デイサービスに通う一方で、リハビリの担当者と相談してリハビリに励んだ結果、自宅の風呂に入れるようになったので、デイサービスの利用は3か月で止めたそうです。そうした経験から、平井さんは、長谷川医師のことばにもあるように、同じ介護サービスでも利用者かそうではないかという立場の違いによって全く違って見えるということを、身をもって実感したということでした。
 


フリートークでの論議から
 

 

 今回の集いの平井さんの話の後の「フリートーク」では、前回の集いでの平井さんの話に対する補足や感想も含めて、会場の参加者と平井さんの間で活発な論議や意見交換が行われました。以下、その時の論議のアウトラインを紹介します。

司会者:
 この後は、前回の集いでの平井さんの話も含めて、自由に感想等を出してもらえればと思うが、私自身の障害者解放運動との関わりについて少し言うと、私が学生だった頃に、前回の平井さんの話にあった「富山市差別文書糾弾闘争」の富山市との「確認会」や「糾弾会」に連れて行ってもらった。その場には、全国から駆けつけた全障連の人たちも参加してたが、「障害者解放運動に関わる障害者の背後に政治党派がいるのでないか」という予断の下に、他の自治体に対応を尋ねる照会文書を送った富山市の差別的な姿勢を追及する障害者の人たちは、すごく迫力があって健常者の自分にとっては怖いくらいだった。その後、私は障害者の介護に入るようになったが、当時、障害者と介護の健常者は、本音でぶつかるような「熱い」関係で、自分も夜中に起こされて「しんどいから後にして」と言って、後で相手から怒られることもあった。今は逆に、そうした関係がなくなってしまったのではないかと、平井さんの話を聞いて改めて思った。

参加者A:
 前回の集いでは、バスの運転手による障害者への乗車拒否に抗議して青い芝の会のメンバーがバスを占拠した「川崎バス闘争」の映像を見たが、自分も昔、富山で障害者をバスに乗せようとしたときに、バスの運転手に乗車拒否されたことがあった。その時、自分たちがバスから降ろされると同時に、それまで静かだった老若男女の乗客たちが一斉に、「お前らみたいのは、バスに乗ってくんな」、「迷惑だ」と大声で罵倒し始めた。それは自分にとっては思いがけない体験で、ある意味では面白かった。そのような感想を自分の周囲の障害者の人たちに言ったら、ひんしゅくだったが。

参加者B:
 今日、平井さんはデイサービスのことを話していたが、やはり、今のデイサービスというのは、障害者本人のためのものというよりも、家族がラクになるためのものかな、と思う。本人が「こういうデイサービスだったら行きたい」とか、「こういうサービスが欲しい」と思っても、サービスが保険点数化されていたり、「メニュー化」されていたりするので、そういった要求に応えるのは実際にはなかなか難しい。現在の福祉の状況は、先に制度があってその枠に利用者が自分の生活を合わせねばならなくて、「その枠の中で生きてください」と言われているように感じる。
 制度に頼らなくても、たとえば、ある車イスの障害者は会話ができないけれども、スーパーで買い物をする際に、「何か困ったことがあれば、この番号に連絡してください」というメモを用意していて、スーパーの店長などが対応できるようにしているそうだ。また、言語障害のある障害者で、乗ってる電動車イスが途中で止まるようなときに、メモの携帯電話の番号を近くを通る歩行者に指で示して連絡してもらっている人も知っているが、それで特に問題は起きていない。SNS上では、「障害者と関わって何かあったときの責任はどうするんだ」といった話が飛び交っているが、そのように、「危険だから」とか、「何かあったらどうするんだ」ということばかりになると、結局、何もできなくなってしまって、障害者の生活は非常につまらないものになってしまうのではないか。

参加者C:
 「65歳以上の障害者は介護保険制度の利用が優先だ」として障害者総合福祉法の介護給付の支給が却下されたことに対して、千葉市の70代の男性の障害者が却下処分の取り消しを求めた裁判のことを、最近、ネットの記事で知った。記事によれば、東京高裁の判決で一度原告の男性側の勝訴となった後、現在、審理が高裁に差し戻されているということだった。そのように、「介護保険制度の利用の優先」というルールによって、それまで利用していた障害者福祉制度のサービスが利用できなくなってしまうことについて、平井さんはどう思っているのか。また、平井さん自身はどのように介護サービスを利用しているのか。

平井:
 私自身は、あまり介護サービスを使っていないということもあって、もっぱら介護保険制度のサービスを利用している。去年は介護保険のサービスをたくさん使ったが、主に利用していたのは、人工関節の手術の後の入浴のためのデイサービスや、訪問リハビリ後にシャワーを浴びるための身体介護サービスだった。富山市の意向としては、障害者が65歳以上になった時点で介護保険制度を優先的に使わせる方向にもっていこうとしている。  生活保護制度の利用者は介護保険料や介護保険のサービス利用料が実質的に免除されるが、生活保護を取っていない65歳以上の障害者が介護保険を使って、デイサービスに通ったり、車イスや介護用ベッドをレンタルしたりしてお金を使いすぎると、今度は、身体介護サービスや訪問介護・訪問リハビリを利用するお金が足りないということになってしまう。また、同じデイサービスでも、「質の高いサービスを提供している」という認定を受けた大手の事業所は、介護保険の点数の加算率が高くなって、他と比べて利用料が高くなる。
 私が知っている65歳以上の障害者でも、今でも障害者福祉制度の介護サービスだけを使っている人もいるし、それと介護保険制度の両方のサービスを利用している人もいる。そうした意味では、千葉の高齢障害者の裁判の結果が、今後の障害者の生き方に大きな影響を与えることは間違いない。なお、制度的には、「65歳以上の障害者は、介護保健制度の限度額まで介護サービスを使ったら、障害者福祉制度を利用してサービスの不足分を補うことができる」ということになっている。しかし、介護保健制度で介護人派遣事業を行っている事業者の多くは、障害者に介護者を派遣する資格をもっていないので、実際にはそうしたサービスの切り替えは極めて困難だ。

参加者D:
 ストレートにお尋ねするが、「障害者解放」という言葉はいつ死んだのか。

平井:
 自分としては、それは2000年代に入ってからのことではないかと思う。前回の私の話の中で、1979年の養護学校反対運動の動画をお見せしたが、その動画の中で視覚障害者で全障連の代表幹事だった楠敏雄が文部省(当時)前で抗議アピールをしている場面があった。2014年に彼が亡くなった後、関西の全障連は無くなってしまったが、彼がいなくなったことは障害者解放運動にとって大きな痛手だった。なお、現在、私も含めて4人のメンバーで集まって、全障連として会議を行っている。
 この間の障害者の運動は、相談事業や介護人派遣事業を行う事業所の運営が主要な活動になっているが、世代交代していく中で、かつてのように障害者が解放されるとはどういうことかとか、障害者差別といかに闘うか、とかいう話をしなくなってきている。障害者が運営する事業所自体も、介護者が集まらないことで存続が難しくなっている。また、長年、障害者介護をやっていたヘルパーがいなくなった後、代わりの人を新たに雇っても、すぐに辞めてしまうということが多い。
 前回の集いでも話したように、私は全障連として、障害児が地域の学校に通うことを求める「就学闘争」に関わっていた。「統合教育」が進まない現状に対して、自分たちとして教育の問題にもっと力を入れたいと考えているが、最近の障害児の親は、「いろいろと手厚く世話をしてもらえるから、支援学校に通学する方がいい」と思う人が多くて、そのことが運動として成立し難いのが現状だ。

参加者E:
 私は、2000年から約5年間、自立生活支援センター富山がスタートする直前の時期まで平井さんたちのやっている「富山生きる場センター」で働いていたが、自分がいたのはちょうど障害者の運動の変わり目の時期だったように思う。前回の平井さんの話ではその頃のことを少し振り返っていたが、当時の富山生きる場センターのスタッフ同士の関係は熱気があって、ピアヘルパーの講座を行うなど、地域の障害者の自立生活を支援するということをもっとストレートに打ち出していた。今日の平井さんの話で、「介護保険の点数が・・・」といった話を聞くと、その頃とは、障害者運動の雰囲気が変わってしまったのかなと思う。
参加者F:
 2003年から2005年ぐらいまでは、措置ではなく、支援費制度になり、施設を出てくる人がどんどん出てきて、私自身、その手助けができているという意味でやりがいがあり、ぱあっと目の前が開けるようなわくわく感があった。しかしその後、支給量の抑制があり、締め付けが厳しくなった。支援費制度が使えた数年間はよかったが、今は変わってしまった。

平井:
 支援費制度が始まった頃は、介護サービスの利用の際に細かく注文をつけられることはなかったが、それが廃止されて以降は、「相談事業所を決めてケアプランを立てないと、介護サービスは利用できない」ということになってしまった。そのことで自分たちの活動内容も大きく変わってしまったように思う。

参加者G:
 私は学生時代に平井さんたちと出会ったが、富山市差別文書問題の糾弾闘争の会場に連れて行ってもらってから、私自身も障害者の介護に入りながら、障害者解放運動に関わってきた。前回の平井さんの話にあった闘争の場面に私も連れて行ってもらって参加したが、その頃の運動に関わって自分も楽しかったし、全障連の障害者の人たちの強い思いに触れて、「障害者が解放されるということは、自分自身の解放にも繋がることだ」と感じていた。
 私は今、精神障害者が通う就労系の福祉施設で働いているが、私の職場では、平井さんたちのように介護保険のサービスの保険点数の計算に苦労するということはない。しかし、先ほどから言われているように、自分自身も「制度の枠に利用者の生き方を押し込める」ということをしてしまっているのではないか、と身につまされるところがある。施設の利用者が楽しいのが一番大事だとは思うが、福祉施設の職員をしていると、どうしても当事者を差し置いて、「この人だったら、こういうサービスがいいだろう」という発想になってしまいがちだ。
 先ほどの参加者の発言にもあったが、支援費制度の廃止後、制限が厳しくなって福祉サービスの利用が不自由になったというのは、どこの障害者の自立生活支援センターのスタッフでも感じていることだと思う。そのような制度の在り方に対する疑問をもつケアワーカー同士でもっと繋がりたい、と思う。今日の集いで何人もの人たちが指摘しているように、福祉制度の不備や介護サービスの不足といった難しい問題への対応が、結局、福祉現場のケアワーカーに「丸投げ」されてしまっている。本当は、そういった問題は現場のスタッフだけが悩むことではなく、「この問題をどうするんだ!」ということを富山市や県の福祉行政の担当者にぶつけるべきではないか。ぜひ、この場にいる人たち同士でそのようなことを考えて、一緒に元気よく行動できたらいいと思う。

参加者H:
 今日の集いの論議を聞いて思うのだが、障害者解放運動の1つの「到達点」は、国に支援費制度を作らせたことではないか。今日の平井さんの話にもあるように、この間、介護保険制度のサービスの運用に合わせて、障害者の介護サービスの利用が規制されるようになっている。しかし、本当は話が逆で、高齢者福祉の制度自体が、かつての支援費制度のように、高齢者がサービス利用料の心配なしに、「必要な支援を、必要なときに、必要なだけ受けられる」ためのものに成るべきではないか。介護保険制度の要介護認定も、本当は医師でなく、実際に高齢者へのケアを行っているヘルパーやケアワーカーが、高齢者本人が望む生活をするためにはどんな支援やサービスが必要かを本人と相談しながら行うべきものだ、と思う。
 このところ、この国でもようやく、「障害」とは当事者の身体機能の欠損が生み出すものではなく、当事者が社会参加するための条件を整備しない社会の在り方が生み出すものだという、「障害の社会モデル」ということが、言われるようになっている。そのような「社会モデル」への認識の転換というのは、この国の高齢者の抱える〈生きがたさ〉がなぜ生じているかを考える上でも必要なことではないか、と思っている。そういったことも含めて、障害者解放運動が思想的にどのような地点に到達して、何を成果として勝ち取ったかということが、現在の高齢者福祉制度の在り方を見直す際の1つの手がかりになるのではないか。また、そのことが、「バトンをつなぐ」というテーマを考える上でも大事なことのように思う。

司会者
 前回と今回の2度にわたって平井さんを迎えて話してもらった後で、今日は時間を取って参加者同士で活発な論議をすることができた。今年度の「バトンをつなぐ」の集いを終了した後も、ぜひ、このように障害者や高齢者の福祉について日頃から感じていることを率直に言い合う場をもつことができれば、と思う。
 確かに制度ができていろんなサービスが生まれているが、先ほどから何人もの人が指摘しているように、そのことで逆に、当事者が制度の枠内で生きることを強制されるという状況になってきている。そうした状況を打破するには、かつての障害者解放運動のように、要求を掲げて行政に迫る力をもう一度私たちが取り戻すことが必要ではないか。そのためにも、「バトンをつなぐ」の集いでできたつながりを活かして、今後、障害者や高齢者の福祉制度の在り方についての実態調査や論議を進めることができれば、と思っている。

発言する参加者

質問に答える平井さん

発言する参加者

発言する参加者

2025/09/03

2025年度連続講座 第2回

第2回 案内チラシ pdf

 

 2025年度企画「バトンをつなぐ――未来につなぎたいもの」第2回は、自立生活支援センター富山代表の平井誠一さんを話し手にお迎えました。
 平井さんは、1985年、障害者運動の拠点や障害者の就労の場として「富山生きる場センター」を開設し、2000年には、障害者解放運動を地域でさらに積極的に進めるために、「自立生活支援センター富山」を開設しました。

 今回、0からの模索 「地域で健常者と障害者がともに生きるぞ!」と題して、1970年代から1990年代までの取組について話してもらいました。
 以下、その時の平井さんの話のアウトラインを要約し、当日使用したスライドも交えて紹介します。 (スライドをクリックすると画像が拡大します)。

高齢者生存組合からの挨拶

平井誠一さん

 

障害者を取り巻く時代的背景

 

 戦後の日本国家の障害者への対応は、傷痍軍人への対応から始まった。1946年~1951年にかけて「福祉三法」が制定され、戦後の福祉施策が展開されていった。
 1971年から多くの障害者をひとつの場所「国立コロニー」に収容するようにしていた。1000名を超えるところもあったようだ。富山では「セーナー苑」がそれにあたり、500名ぐらいの障害者が収容されていた時期もあったようだ。2003年まで続いた。
 1979年の養護学校義務化を阻止する運動は全国的に展開された。このことについては、後で述べたい。
 1981年は国際障害者年だったが、それを契機に障害者にかかわる制度が変わったかというと、なかなか改善されなかった。2006年に障害者権利条約が採択されたが、国内法を整備するのに、時間がかかり、批准したのが2016年だった。それに比べて1989年に採択された子どもの権利条約は国内法整備もそこそこに1994年に批准されている。
 1989年から少子化が始まるが、時を同じくして養護学校が増加していく。この状況が今も続いている。
 2000年から〈措置制度から契約制度〉に移行したが、このことについては次回9月にふれたい。

タイトル

時代的背景 1

時代的背景 2

時代的背景 3

 

1970年代前後の社会情況

 

 戦前から盲学校、聾学校は義務化がなされていた。戦後、1947年学校教育法で、その他の障害者に対して「幼稚園、小学校、中学校又は、高等学校に準ずる教育を施し、あわせてその欠陥を補うために必要な知識技能を授けることを目的」とする規定が設けられた。しかし、就学猶予・就学免除制度により、多くの重度・重複障害児が教育を受けられない状況が続いていた。
 1956年に富山市で病院と学校が併設された高志学園、1966年に富山養護学校が建てられた。
 障害の軽い人は富山養護学校、重い人は高志学園と、障害の重い軽いで、学校を変えられた。この時、養護学校や高志学園では就職が難しくなるという理由で普通学校へ転校していく人が多かった。
 1970年代には社会運動が活発になった。公害、薬害など、多くの裁判闘争がおこなわれていた。その他に女性解放運動・学生運動・労働運動・部落解放運動・アイヌの運動などさまざまな運動体ができた。障害者運動では、全国障害者解放運動連絡会議(身体・知的・精神・難病・部落・在日)・全国青い芝の会連合会(脳性麻痺者の会)・全障研(共産党系:発達保障論)・障害連(社会党系)等が活動を活発にしてきた。レジュメにはないが、アメリカの自立障害者がCILといわれる自立生活支援運動を起こし、日本でも始める人が出てきた。DPIといわれる障害者インターナショナル運動も起きていた。
 これは、東京の地下鉄に乗車しようとしている写真だが、障害者一人に4~5人の介助者が関わっていた。今はこのようにする必要はないが、当時はこのようにしていた。

社会情況 1

社会情況 2

1970年代 駅の風景 1

1970年代 駅の風景 2

 

富山の障害者解放運動の歴史

 

 私は幼少期から、高志学園の寄宿舎で過ごしていた。小学部は五福小学校の分校ということで、五福小学校を卒業したことになり、そこの卒業証書を持っている。小学部を卒業したあと、富山養護学校の中等部・高等部とすすみ、そこを卒業した。その後、縁あって、福井の印刷会社で仕事を始めた。そこをやめて富山に戻り、富山でも印刷の仕事をしていた。その頃、吉田さんという人が「あおぞらの下、外に出よう」というスローガンで県下の障害者を集めて、「あおぞらの会」という活動をしていた。その吉田さんに「印刷を手伝ってくれ」といわれ、私もその活動に関わった。またその頃に、富山の障害者運動は、富山青い芝の会と全国障害者解放運動連絡会議北陸ブロックの活動があり、私は両方に関わっていた。
 1977年に、川崎でバス乗車拒否闘争があった。青い芝の会の富山と石川合同で、抗議行動をした。北鉄バス乗車拒否事件でも抗議行動をした。その後富山青い芝の会のめざすところや行動の違いで、分裂した。富山青い芝の会をやめ、「どろんこ作業所」を立ち上げ、運動体として「サンの会」を名乗った。
 1983~85年の富山市行政差別照会文章事件の確認会と糾弾闘争を全障連として闘った。当時、富山市生活保護課が「障害者は無謀な要求ばかりして来る」、「過激派とくっついて利用しているようだ」ということで、生活保護を不正受給しているのではないかという差別的疑念から、富山市と同じ、人口30万規模の全国の市に対して対策をどうしているかという照会文書を出して、問い合わせるという事件があった。この中に青い芝の会や部落解放同盟も記入されていた。この差別照会文書をめぐって、富山市が障害者差別をしたことに対して糾弾し、そのことを確認する闘争だった。
 この時に問われたことは、①障害当事者の主体性とは何か。②障害当事者の権利とは何か。③障害当事者の自己責任とは何か。④障害者解放運動とは何か。ということだった。
 1985年には、全障連富山大会を実行した。この大会で、①地域の人たちとの関係作りと拠点作り、そして、②「ともに生きるための実践と広がり」を課題とした。

 

 私は、1990年にアメリカに行く機会があり、アメリカの障害者と交流してきた。アメリカの障害者差別に関わる法律には罰則規定があるが、日本の法律にはない、今もなく、ひとつの課題になっている。訪米を契機に国連のNGO(反差別国際運動)の理事についた。理事として、マイノリティの中の障害者の人権に関わる活動をした。
 1991年、富山大学に車椅子を利用する障害者が入学し、バリアフリー化が進んでいない大学を改革するために非常勤講師になった。その期間に予算を獲得するのに苦労した。ずいぶん長く勤めたが、2015年に辞めた。

 

富山の歴史 1

富山の歴史 2

富山の歴史 3

 

全国青い芝の会の闘い

 

 私が70年代に関わった青い芝の会は、差別の根っこにある優生思想との闘いを課題にしていた。障害者を施設に収容する事に反対する。銭湯入浴拒否事件に抗議する等、障害者差別反対闘争が続いた。私は銭湯で裸のまま数時間、お風呂には入れず、風邪をひいてしまったことがある。
 1977年に「川崎バス闘争」があり、全国に広がった。北鉄バス乗車拒否事件もそのひとつだ。
 2016年に起きた相模原市「津久井やまゆり園大量殺傷事件」が象徴的だが、優生思想は今でも根強く残っている。
 
1977年の「川崎バス闘争」の映画をみてほしい。
    ① 障害者が車椅子から降りてバスに乗車すると、バスは停止したままになる様子。
    ② 車椅子の障害者をバスに乗車させない様子

バスに乗り込む

バスは動かない

バス乗車拒否

    ③ 道路に横たわる障害者 
    ④ 労働組合の幹部が青い芝の会のカメラマンにこんなことをやめろと恫喝している様子
⑤ 青い芝の会員がアピールしている様子
 この闘争の10年後ぐらいにようやく車いすをのせられるバスが導入されていった。

道路に横たわる障害者

労働組合員がカメラマンに恫喝している

青い芝の会からのアピール


   全国青い芝の会の行動綱領を紹介する。全部読むと長くなるので、項目だけ。
 1.われらは、自らが脳性まひ者であることを自覚する。
 1.われらは強烈な自己主張を行う。
 1.われらは愛と正義を否定する。
 1.われらは健全者文明を否定する。
 1.われら問題解決の道を選ばない。
「青い芝の会」の綱領をもとにした闘争で何が重要かという「告発」と「自己主張」である。
 「愛と正義を否定する」とあるが「人を愛することはだめなことなのか」という人がいるが、そんなことはない。「障害者は可哀想だから、施設にいた方がいいよ」というような正義感を否定するということ。

青い芝の会 1

青い芝の会 2

青い芝の会 3

 

全国障害者解放運動連絡会議の養護学校義務化阻止闘争

 

 養護学校義務化阻止闘争は、私にとっても、全障連にとっても大きな闘争であった。
 「全障連はすべての障害者差別を糾弾し、障害者の自立と解放のために戦う」という方針を表明した。
 これは即ち、第一には障害者差別、第二に優性思想に反対することを主眼としつつ、障害者個人の自立と解放のために活動することを表明した。ここでいう「解放」とは、「障害者への差別・偏見の常識を基盤とした健全者社会」から障害者を解放することを意味する。
 
障害者差別とは、

     ①能力主義差別
     ②異形に対する差別
     ③障害者に対する予断と偏見
     ④優生思想に基づく差別

 
 文部省前を中心に養護学校義務化阻止闘争をおこなった。一週間続けたが、残念ながら阻止できなかった。その時の映像を元に「養護学校はあかんねん」という映画を作成した。
 
「養護学校はあかんねん」の映画をみてほしい。 
(ゆっくりと養護学校の義務化ついての文章が上へスクロールする場面から始まる)
 

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)1

養護学校はあかんねん!タイトル

「養護学校はあかんねん」の最初の部分 1

「養護学校はあかんねんの」最初の部分 2

 

 楠敏夫 全障連事務局長からのアピール
 文部省前での抗議行動 「障害者差別を糾弾するぞ」「発達診断表粉砕」「就学時健診を粉砕するぞ」「文部省は義務化をやめろ」等のシュプレヒコール
 インタビュー
 長いので後は省略。

全障連 事務局長

養護学校義務化阻止闘争 文部省前

インタビュー

 
 私は、全障連の教育部門を担当していたので、文部省交渉と就学闘争と教育委員会交渉をになってきた。
 ・梅谷尚司くんの富雄中学校入学闘争(知的障害)
 ・金井康治くんの花畑東小学校転校闘争(脳性麻痺)
 ・石川重明君の飯田小学校転校闘争(未網児網膜症・知的障害)
 ・森本おりえさんの普通学校転校闘争(視覚障害)
 ・平本歩さんの人工呼吸器をつけて小中高の普通学校への闘争。
 個別の就学闘争、教育委員会との交渉をおこなった。それぞれの家庭に泊まって話し合うこともあり、家庭の事情にふれることもあった。

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)2

 

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の闘い

 

教育部門での交渉でのやりとりから
 
 勝ち取ったもの:パソコン受験・点字受験・0点でも普通学校へ。
 反対される理由:
 ①親に言わされているという見方。(本人の意思を認めようとしない)
 ②障害児が来ると他の子に迷惑だから。
 ③障害児が来ると勉強が遅れる。
・清水市の教育長の発言「この子は、教育の対象ではない。福祉の子だ」・・・
 優生思想がこのような表現に変形していく。
 

優生思想との闘い 
 <旧厚生省の発言と2000年以前の福祉施策>
 ・社協のヘルパー派遣・生活保護費の他人介護料 月4万円
 ・1977年厚生省交渉で「1日4時間以上介護の必要な者は、施設に入って下さい」と発言される。
 ・公的介護保障を求める運動
 (自薦ヘルパー制度と公的ヘルパー制度)
 ・地下鉄にエレベーターを付けさせる運動
 ・公共交通機関の乗車拒否(公共のバス・電車に乗せろ全国一斉行動)
 ・行政で障害者を雇用せよ(豊中市に視覚障害者・脳性麻痺者等の運動)
 ・大原闘争(視覚障害者の鉄道事故)
 ・生きる場・障害者の拠点作り
 ・公共の場のバリアフリー化
 ・「ワハハ本舗」差別ビデオ事件(視覚障害者のドミノ倒し、差別的方言のお国あて発言)
 ・「丸八真綿」差別事件(障害者・部落民に布団を売らない)
 ・飲食店やホテルの入店拒否
 今まで、様々な闘いをしてきた。課題・問題があれば、全国を飛び回り、相手に対して粘り強く交渉をして、障害者差別に反対してきた。しかし、制度の改善だけでは、優生思想を変えることに、なかなかならなかった。

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)3

全国障害者解放運動連絡会議(全障連)4

 

今回のまとめ

 

2000年以前の障害者解放運動を振り返って

フリートーク 

 

質問者
 70年~90年代の闘いのありようを伺いましたが、平井さんが闘うことになるきっかけ、原点のようなものはなんですか。

 

平井さん
 小さいときから、ずっと高志学園の寄宿舎にいた。年2回だけ、家に帰ることができた。養護学校の中等部・高等部も寄宿舎生活だった。規則では土日に帰ることもできたが、家に車がなくて、「帰りたかったら、自分で帰ってこい」というような親だった。
 10歳の時、母親が脳腫瘍の手術を受けたとき、頭にげんこつの跡が残っていた。13歳の時、母親が病気でなくなった。、そのとき自分は涙が出なくて、泣かなかった。養護学校の先生にも父親にも「なぜ泣かないのか」とひどく責められたことを記憶している。今思えば、「親子の関係が今後どうなるのかな」という不安で一杯だったのではないかと思う。自分の記憶では、父親が母親をよく殴っていたので、今度は自分が殴られるのではないかという恐怖のようなものがあった。
 だから高等部を卒業したとき、親と完全に切れたいと思った。家には帰らない、富山にはいたくない。縁あって福井で働いた。すぐやめて、富山で住み込みで働いた。給料は25000円、同期の人たちは6万円だった。同期たちの半分にもならなかった。
 住み込みはいやなので、アパートを借りて一人暮らしを始めた。「給料を上げてくれ」と会社に言ったが叶わなかった。そのことを父親に話したら、「俺の扶養手当の方が多くもらえるから、働かない方がいい」と言われた。父は労働組合の委員長をやっていたので、このような冷遇に労働者として対応してくれるものと思っていたが、全然そうではなかった。生活保護費より安い給料を考えると、自分にとって会社で働くことは差別を実感する場だった。会社で働くことは、差別を日常的に実感するようなものだった。そんなことが、障害者解放運動を始める原点の1つになっているのかもしれない。
 余談になるが、父は戦争で中国大陸に行っており復員してきたと、後になって聞いた。もしかするとその戦争体験が、父が家で暴れたことと関係しているのかもしれない、と今は思っている。
 
質問者
 とても、普段聞けないようなプライベートな部分にまで及んで、話をしていただきました。ありがとうございました。

質問する

質問に応える平井さん 

 

2025/06/26

2025年度連続講座 第1回

第1回 案内チラシ pdf

 

 高齢者生存組合の2025年度 連続講座 第1回の「ACT地域精神医療を推進して」では、アイ・クリニック理事長の吉本博昭さんを話し手に迎えました。
 吉本さんは、富山市民病院・精神科を退職して2011年にアイ・クリニックを開院し、依存症等の心の病を抱える人たちが実際に生活を営む場を医師・看護師・精神保健福祉士等による多職種チームが訪問して支援するACT(包括型地域生活支援プログラム)を実践しています。
 当日、吉本さんには、富山で先駆的にACTの導入を進めてきた経緯や海外の精神医療の先進地域での取り組み等を、多数のスライドを使って話してもらいました。
 以下、その時の吉本さんの話のアウトラインを当日使用したスライドも交えて紹介します(スライドをクリックすると画像が拡大します)。

高齢者生存組合からの挨拶

吉本博昭さん 

 

なぜACTを始めたか

 

 精神疾患それ自体は成人の数人に一人が発症する「ありふれた」病気であるにも関わらず、日本では心の病を抱える人たちへの差別的な扱いや精神科病棟への長期収容が続いている。そうした状況に対して、「WHOの勧告(1968年)」や「OECDの分析と提言」などでは、「質の高い精神医療は病院での治療から、地域でのケア体制を充実することが必要」という今後の精神医療の方向性が示された。
 また、富山市民病院でACTを立ち上げた2007年に、「第14回日本精神障害者リハビリテーション学会」が富山で開催され、「患者さんが望むものは、住んでいる町や村での、あたりまえの生活だ」と訴える富山大会宣言が採択された。その宣言や「WHOの勧告」、「OECDの分析と提言」の理念に基づき、現在までACTを続けている。

WHOの勧告から

OECDの提言から

富山大会宣言(1)

あたりまえの生活が

 

アイ・クリニックを始めた経緯

 

 2005年に、富山市立病院の精神科病棟のベッド数を半減するプランが発表され、同時期に、ACTの研究プロジェクトを立ち上げ、翌2006年、試行。2007年に市民病院でACTを開始した。

富山市民ACTの立ち上げの経緯

富山ACTの実施システムの検討

ACTの実施概要(1)

富山市民ACTの紹介パンフから

 市民病院でのACTの経験をふまえて、2011年、現在の場所にアイ・クリニックを開院した。開院時に町内の人たちから、精神科病院を開院することを思いとどまってほしいとの要望があったが、何度も話し合い、なんとか開院できることになった。開院後、町内の人たちから、「心配は杞憂だった」、「開院してもらって良かった」との評価のことばをいただいた。
 アイ・クリニックでのACT(iACT)の特色としては、日本で初めてアルコール依存症の治療を「アウトリーチ」(訪問診療)方式で行っていることや、他の総合病院の精神科との連携がある。自分としてはACTの普及を願っているが、ACTの活動に対して現行制度では保険診療点数が付かない等、いくつもの課題がある。

iACTの立ち上げの経緯

iACTについて

iACTと総合病院精神科との連携

ACTは発展できるか

 

オーストラリアとイタリア訪問

 

 2007年10月末、精神科の治療が国立の総合病院で行われているオーストラリア・メルボルン市を訪ねて、現地での精神保健改革(1992-)の取り組みを知ることができた。イタリアでは一部の総合病院の精神科を除き、精神科病院が廃止されたが、イタリア訪問では、それに至るまでの精神病患者の長期収容所の閉鎖的な実態や、精神科病院の解体を推進したフランコ・バザーリアの「自由こそ治療だ!」という理念の下に精神疾患をもつ人たちへの医療・ケアを実際に「地域医療」として推進している様子に触れることができた。

なぜ、オーストラリアなのか

NMHSの成果

なぜ、今イタリアか

自由こそ治療だ!

 

今後の地域精神医療に望むもの

 

 近年、地域包括ケアシステムを心の病をもつ人たちにも対応させよう、という「にも包括」ということがよく言われるようになったが、ACTの当面の課題として「にも包括」の推進・具現化ということがあると考えている。2022年の「精神保健福祉法」の一部改正で「にも包括」が正式に規定されたが、今後、富山市版「にも包括」システム構築へのロードマップの作製・提示が求められている。

iACTの問題点とは

「にも包括」とは

精神保健法改定「にも包括」導入

富山市「にも包括」を提示

 

 ※ホームページに掲載するに際して、当日の吉本さんの話とスライドの順序を一部変更。なお、当日使用されたスライド全体と会場で資料として配布したACTに関するパンフレットの閲覧は、以下をクリック。

 

  

 第1回 吉本さんのプレゼンテーション pdf資料 176ページ     

 

 第1回 吉本さんのプレゼンテーション当日印刷された資料 30ページ

  

 第1回 資料 ACTガイド

  

 アイ・クリニックの紹介
「最新の Clinic News:」欄の2025.6.15に「吉本医師がサンフォルテでの講演で使用したスライドのファイルをダウンロードができます」のお知らせ

 

フリートーク

 

 初めに、会場から、「今後、富山でACTを推進するための課題としてどんなことがあるか」と問いが出された。
 その問いに対して、吉本さんは次のように答えた。
 「ACTには保険診療点数がないので、病院の経営上は不利。しかし、ACTの活用によって県や国の精神疾患に対する医療費の総額は、入院中心の場合よりも安くなる。一方、ACTを利用すると入院に代わって通院による治療の回数が増えて一人あたりの治療費が高くなるので、それに対して監査が入り、病院の経営が成り立たなくなる、という問題がある。また、現在対応できる人数が限られているので、今後「にも包括」が富山で具体化されることで、もう少し自分たちが対応できる人数が増えるのではないか、と考えている。それに向けて声を上げることが大切だと思う」。
 「第4回の話し手の惣万佳代子さんは、私の地元の中学校の後輩だが、高齢者も障害者も子どもも同じ場所でケアできる仕組みとして『このゆびとーまれ』を日本で初めてたちあげて、それが制度化されるまで頑張った。私はまだもう少し若い頃に、精神疾患をもつ人たちが地域で暮らせるようになることを願ってACTを始めたけれども、残念ながら、そのことが今でもなかなか実現できないでいるが、そうした人たちが誰でも地域で当たり前に生きられるようにしていくことが大切だと思っている」。

   別の参加者からは、「サ高住」で暮らしていた母親の認知症が進んだときに、施設のケアマネから、「もはや介護の問題ではなく、医療が必要だから病院へ移ってほしい」と言われて、不本意ながら地元の総合病院の精神科病の閉鎖病棟に入ることになり、そこで薬で大人しくされて、最後は老人病院で亡くなったことが語られた。そのように、「にも包括」とは正反対に、精神科病棟が認知症の高齢者の「収容施設」化している現状に対して、富山でACTを推進してきた吉本さんとしてはどうしたらいいと考えているか、という質問があった。
 その質問に対して、吉本さんは次のように答えた。
 「認知症になることと精神病になることとは、本当は全く次元の違うことだ。確かに、認知症の高齢者の興奮状態がひどいときに、ある特定の条件の下で精神科病院で対応することは必要だけれども。そうでなければ、病院以外の場所で十分対応できることのはずだ。結局、高齢者施設では対応できなくなってそこから精神科病院に移った後で戻る場所や筋道がちゃんと確立されていないというか、施設と病院の連携をどうするかということではないか。ただ、ACTは体が元気な人を対象にしていて必ずしも万能ではないので、そのようなACTの限界を超えるような仕組みが必要だろうが、そこをどうするかが難しいところだと思っている」。
 
 また、第1回の「フリートーク」では、ある参加者から、「私は高岡市でケアマネをやっていて、アルコールやギャンブル依存症の人たちを担当しているが、そこでいろいろな問題が連続で起きて困っていて、ACTのような仕組みが私の地域にもあればいいと思って今日の話を聞いていた。このACTの活動が広まることを強く願っている」という発言もあった。
 
 「フリートーク」の最後に、第3回と第4回の話し手の平井誠一さんから、次のような質問と発言があった。
「私は自立生活支援センター富山を営んでいるが、そこの利用者の中には、身体障害者か知的障害者かに関係なくこだわりの強い人がいて、相談活動をするのがとても大変なのだが、そうした人たちに対応するポイントはどんなことかとよく思う。障害者は、『身体』、『精神』、『知的』、『難病』の4障害に分けられているが、相談者の中に重複障害の人も多くなってきている」。
「私が手術で入院して退院するときに、担当のケアマネがいないと退院できないということを言われて、慌ててケアマネを探したのだが、自分のような障害者の問題を包括的に考えられるケアマネがなかなかいなくて困った。それには、制度の問題とスタッフの在り方など、いくつもの課題が重なっていると考えている。この後、7月と9月の2回にわたって話す機会があるので、その時にもっと詳しく話したいと思っている」。
 平井さんのその質問と発言に対して、吉本さんから以下のようにコメントがあった。
 「こだわりの強い人に対するのは、精神科医でも難渋している。強迫症状なのかどうかは分からないが、基本はまず話を聞いてあげること。『この人は私の話を聞いてくれる人だ』と認識するまで我慢することが大切で、最後まで話をちゃんと聞いてあげるとそれで気が済んで、次からは話が短くなることが多い。逆に途中で相手の話を打ち切ると、また始めから聞くことになって、もっと時間がかかるし、問題が解決できなくなる」。
 「ご指摘のケアマネの問題だが、現在の医療・福祉の仕組みは『完成形』ではないので、おかしなところはおかしいと声をあげていくことが大切だ。行政機関の役人は机上で制度を考えていて、実際に起きる様々な問題を検討していない。『急がば回れ』という気持ちで考えるしかないのではないか。平井さんも僕も70歳を超えているから、そんなに先はないけれど、焦ってみてもしょうがないかなという風に思っている」。

 

第1回の連続講座の締めくくりとして
 
 最後に、第1回の進行役は以下のような発言で集いを締めくくった。
 「国がつくっている制度は一見いいものに見えるものがあるが、実際に動くスタッフが不十分だったり、予算が不足したりして、実際には必ずしもそうなっていない。そうした中で、吉本さんが富山で進めてきたACTの営みは、精神障害のある人も地域で当たり前に暮らしていけるような社会を求めるものだと思うが、それは、もちろん高齢者も含めてどんな人にもあてはまることのはずだ。
 吉本さんも言うように、みんなで声を上げていくことはとても大事だと思うので、今日の集いで吉本さんから指摘された問題を、今後もまた皆さんと一緒に考えていきたい」。

吉本さんに質問する平井さん

会場は満席

 

2025/06/04

25年度企画 オープニング 報告

 

 2025年度企画の「オープニング」の 「戦後80年バトンをつなぐ  未来につなぎたいもの」では、劇作家・演出家で社会批評家の菅孝行さんをスピーカーに迎えました。
 今回、菅孝行さんは、17世紀の「30年戦争」後に始まった国民国家を単位とする近代世界の枠組み自体が揺らいでいるという大きな視野に立って、日本の戦後の社会運動の軌跡から現在の私・たちが何を受け継ぎ、何を未来へと手渡すかをめぐって語りながら、そうした過去の闘いの中で生み出された人々の相互扶助や自治の経験を日本社会の中で生き難い人たちを〈歓待〉するアジールを生み出すことへとつなげることが求められているはずだ、と強く訴えていました。
 菅孝行さんの話の後、休憩をはさんで、約1時間、菅さんと会場の参加者の間で自由に語り合う「フリートーク」を行いました。
  (「オープニング」での菅さんの話の概要については、レジュメ参照)
 

※ 菅さんに富山に来ていただいたのは、
 2018年「米騒動100年プロジェクト SCENE7」
 2019年「TALK & DISCUSSION 私の「戦後史」につづき、今回のオープニングは3回目です。

大いに語る菅さん

会場

 

 

フリートーク
 
 「フリートーク」では、25年度企画の第2回・第3回のスピーカーの「自立生活支援センター」の平井誠一さんから、次のような発言がありました。
 「地域で生きる障害者に介護者を派遣する制度がなかったので、70年代の障害者解放運動ではそれを要求する運動を展開して、介護人派遣制度も含めていくつもの制度を獲得してきた。しかし、現在、そうした闘いの歴史がきちんと継承されていないことで、逆に制度がすでにあること自体が、障害者の運動をさらに進める上での障壁になっているように思う。今日の菅さんの話を手掛かりにして、今後の新しい運動のあり方を考え合いたい。」
 また、別の参加者からは、「この数年間、コロナ禍で人々が交流できなかったことが、社会運動の現状に大きく影響しているのではないか」という意見もありました。
 今後、「フリートーク」での論議も含めて「オープニング」での話をパンフレットにする予定です。

 

菅さんと平井さん

参加者からの発言

連続講座:スケジュール

  

1回 6月15日(日) 吉本博昭さん     306号室
ACT地域精神医療を推進して 
2回 7月13日(日) 平井誠一さん Part1  305号室
自立生活支援センターを開設して 
3回 9月14日(日) 平井誠一さん Part2  305号室
若い人たちに伝えたいこと
4回 10月12日(日) 惣万佳代子さん     305号室
若い人たちに伝えたいこと
5回 11月16日(日)             305号室
再び話し手のみなさんに集まってもらい
「バトンをつなぐ―未来につなぎたいもの」
について語りあいます。

 


場所:サンフォルテ富山市湊入船町6-7
時間:午後1 時半~ 4 時参加費+資料代1000 円

 

 

今回お招きする三人は、ずいぶん前になりますが2012年の私・たちの企画でお招きしました。

 2012年11月18日 ラウンドテーブル: 「滑川『一家孤立死』事件につまづく 私たちの眼/耳は 何を視て/聴いているのか?

 

「すべての生の無条件の肯定」を

 

 2018 年開催の「米騒動100 年プロジェクト」 から産み出された「高齢者生存組合」は、高齢者が 抱えている〈生きがたさ)からの解放を求め、相互 の結びあいの力で社会と向き合う生存組合です。

 1970 年、アメリカでグレイパンサーを名乗る運 動体がひろがりました。
全米で6 万人、130 のネットワークにひろがっ たグレーパンサーは、エイジズム(年齢差別)からの 解放をかかげ、社会を変えようとしてきました。彼 ・彼女らは「老人としての誇り」を高らかに謳い、 「年をとることに価値を見いだす社会」を目指しま した。彼・彼女らの活動や理念は、今のこの困難な 時代だからこそ、あらためて見直すべきことだと考 えています。

高齢者生存組合リーフ表
高齢者生存組合リーフ裏
高齢者生存組合 ご挨拶
もうたくさんだ行進!
高齢者生存組合を!
とめるぞ!志賀も川内も!
ブラック企業 ゼロにしろ!