社会運動の古典的な範型が解体されて久しく、既存の社会変革の理念から変革の具体的な展望が失われている現在、私・たちの手にある最後の根拠は、いかなる理念・党派的展望にも関わりなく、自らがこの世界に在ることにおいて抱く不全感であり、ただそれだけを武器として、世界と向き合うことである。その際、私・たちが唯一手がかりとしうるものは、私・たちのところまで流れてくる、この列島における民衆の闘いの軌跡、民衆の〈じゃなかしゃば〉への希求の系譜である。
忘却のかなたにおいやられたかにみえる記憶は、持続的に過去を想起し続ける想像力によって、現在の中に追体験される。そして、過去は過去ではなくなり流動を始め、現在に向かって覚醒する。この時、無意識のままに流されていた現在も流動を開始し、今をつくる無意識は打破される。(小野沢稔彦)
『米騒動100年プロジェクト』は、私・たちがここに〈引用〉した言葉を生きようとする試みである。この試みを通じて受け止めた、民衆の〈じゃなかしゃば〉への希求(それを、私・たちは〈生の組み=合い〉=〈生のサンジカ〉への希求と呼んでいる)を、今ここから未来へ向けて生きること
それが私・たちの課題である。
Ⅱ.〈生のサンジカ〉 その希求の軌跡と現在
1.その原型
1918年の富山は滑川の地。そこで湧き上がる米騒動の息吹き。
〈全ての生の無条件の肯定〉
移出米商の前で陸仲仕(=米担ぎ)のお母ちゃんたちを先頭に2000人の群衆が叫んだのは、まさにこの理念に貫かれた言葉であった。それが広まり、やがて列島全土が共鳴する。私・たちは、〈全ての生の無条件の肯定〉を目指す〈生のサンジカ〉を希求する民衆運動の原型を、そこに感じた。
〈生のサンジカ〉とは それは、近代国家や資本制社会が、常に既存の生活文化や諸制度を通じて、ソフトな管理で、あるいは政治的局面では剥き出しの暴力で、民衆に強いてくる、人と人との関係を拒む在り方=〈自律〉した民衆同士の人と人との結合の在り方である。強制力をはねのけて成立させるものである以上、いつの時代でもそれは反秩序的である。それは、常に開放的で水平な人と人との関係の結び方であり、共に目指す社会像でもある。
2.1918年に始まり、この列島上を幾度となく吹き抜けた民衆運動
この100年間、民衆運動は〈生のサンジカ〉を希求し続けた
① 1930年代 ー〈生の囲い込みと排除〉に抗して
米騒動以後、爆発的に頻度を増す労働争議。激しい闘いの背景には、資本主義が必然的に引き起こす世界的危機があり、生活苦にあえぐ労働者や下層民に、最もそのしわ寄せがいく。1929年の恐慌以後、各国がブロック経済を敷いていく中、国家は、列島住民に対し「国民化」という〈生の囲い込みと排除〉を一層強める。大陸進出と戦争準備の暗い時代である。暗闇の中、迷走する「党」指導部の在り方はどうであれ、国家の弾圧に抗し資本と闘う底辺労働者の闘争現場は、〈生のサンジカ〉の希求に貫かれていた。
そこには、短期間ではあったが、より厳しい弾圧を受ける朝鮮人労働者と日本人労働者が互いの生を結び合い、国家・資本を相手に〈生の囲い込みと排除〉に抗して闘った「全協土建」の闘いもあった。
また、それと並行して、まさに生の「糧」を求める「昭和米よこせ運動」の展開があり、それにも連なった、「京都消費組合」運動に関わった者たちによる「土曜日」誌の刊行があった。「生活に対する勇気」「精神の明晰」「隔てなき友愛」を掲げる「土曜日」誌の刊行は、投獄覚悟で、それでも〈生の享受〉の姿勢を手放さないという、国家の〈生の囲い込み〉に対する抵抗の運動であった。
② 1945年直後 ― 短い〈生の横溢〉の季節
アジア・太平洋戦争の敗戦直後、真っ先に立ち上がったのは、日帝支配による抑圧を受けてきた朝鮮人労働者や中国人労働者たちであったが、日本国家は周到に、新憲法施行の前日に、天皇の最後の勅令として「外国人登録令」を発し、「国民」から植民地出身者を排除し、切り捨てた。
しかし、「戦後0年の戦後革命」は、闇市や軍部の隠匿物資の摘発などが活発に行われ、食糧人民管理、工場での生産管理闘争や、それに関わるストライキに呼応した米の供出拒否が頻発。国家の〈生の囲い込み〉に背を向けた列島住民の生が溢れ出す、短い〈生の横溢〉の季節であった。
③ 1950年代 ―〈生の引き剥がし〉に抗して
米覇権主義の傘下で延命した支配層は、日本資本の再興を狙って、再度「国民」への〈生の囲い込み〉を強め、求められるだけの「領土」を米軍へ貸与するための露払いとして、「領土」からの〈生の引き剥がし〉を行う。しかし、国家の言う「領土」とは、住民にとっては共同で生を営んできたかけがえのない「土地」なのである。石川県内灘に始まる反基地闘争は、「土地」からの〈生の引き剥がし〉に抗する地域住民の闘いであった。
53年6月、朝鮮戦争に向けた「米軍の無期限土地使用許可」の閣議決定に対して、内灘では、「金は1年、土地は万年」をスローガンに掲げ、村民の座り込み、デモ隊と警官隊との衝突、北陸鉄道労組の米軍物資輸送拒否決定と48時間ストなど、運動は最高潮に達した。北鉄労組の闘いには、大衆闘争路線による組織強化を図る当時の高野実総評事務局長も着目し、やがて列島各地における〈ぐるみ闘争〉として結実した。この内灘の闘争スタイルは、列島各地の反基地闘争や、沖縄での島ぐるみ闘争へと繋がっていく。
このように、内灘を始め列島各地で起きた反基地闘争は、〈生の引き剥がし〉に抗する地域住民の闘いに、強度を増す、国家による〈生の囲い込みと排除〉の姿勢に抗う列島住民が、幅広く呼応し、大きなうねりとなった。
④ 沖縄ー〈生の遺棄にうち続く生の枯渇化〉に抗する島ぐるみの闘い
敗戦直後の天皇の「沖縄メッセージ」により米軍統治下となった沖縄へ、列島上に点在していた米軍基地が、やがて集約され、列島から基地は見えにくくなり、列島と沖縄の反基地闘争は分断されていく。島を生きる沖縄の人々の〈生の遺棄にうち続く生の枯渇化〉は、米帝と日本国家の両者によるものだが、今や多くの列島住民の意識の中でも、沖縄住民の「生の遺棄」は起こっており、沖縄住民の生を「遺棄」し続ける列島住民自身の「生の枯渇化」も、沖縄とは逆の意味で、同時進行している。
非暴力不服従で反基地闘争を闘う沖縄は、今も島ぐるみで〈生の遺棄にうち続く生の枯渇化〉に抗い続けている。
⑤ 1960年前後― 大労組による〈生の組織化〉の終焉、されど闘いの核心は細部に宿る
1960年前後、三池闘争は、「総資本対総労働の闘い」と謳われた。労組の「ナショナルセンター」の立ち回りの是非はさておき、地下の坑道で、互いに命を預け合いながら働く坑夫たちの〈生のサンジカ〉の希求の闘いは、闘争の前線に息づいていた。1918年米騒動当時、納屋制度にがんじがらめになり、地上での生活を収奪されていた坑夫たち。敗戦後の様々な闘いを通じて〈生の収奪〉に抗ってきた坑夫たちが、それまでの闘いの経験を生かして、生の全重量を賭けて闘った。
⑥ 1960年代前半― 垣間見えた〈生の自律〉のさきがけ
60年安保/三池闘争敗北直後、労組・政党から自立した組織原理で「大正行動隊」が結成される。その核となったのが、谷川雁らが組織した「サークル村」であった。それは、山口から南九州にまたがる文化サークル運動の「交流」による〈集団的な革命の知の獲得〉を目指していたが、やがて、炭坑闘争の最後の〈闘いの思想運動的拠点〉へと変貌した。会社からの延命への協力要請を拒否し、退職者の労働組合運動を独自に展開した。未払い賃金や退職金を要求し、ヤマから下りた者たちの生活共同体の実現を目指した闘いは、生産領域から再生産領域へ、闘いの前線の重心が移ることへの「遠い予兆」であった。
⑦ 〈1968年〉―〈生の自律〉を求めて
〈68年〉は大学闘争の「大学解体」というスローガンに象徴されるように、既存の秩序や価値観を疑い、根底的に問い返す「社会闘争としての文化運動」であった。大学の在り方から天下国家まで全てを問い返す運動は、それまでの社会運動の古典的な範型をほぼ解体し、その後の諸社会運動の在り方の原点となった。
自分たちが属している大学という場が、明治以来、日本国家・資本が進める急速な近代化政策を司る心臓部であることを自覚したとき、自分が携わる学問の在り方を問い、大学の成り立ちを問うことは、即ち、日本の近代化や近代合理主義を疑うことでもあった。自分たちが立っている土台が、嘘と虚飾に満ちた「日本近代史」や「戦後民主主義」の言説の上に築かれていること、そのことに自覚的に生きるとはどういうことか それはつまり、〈生の他律〉を疑い、拒否し、〈生の自律〉をどこまでも生きようとする若者たちの〈生のサンジカ〉の希求であった。
このスタイルは個人の生き方から運動の組織論までも含み、徹底され、明治維新から100年、米騒動から50年を経て、遂に列島の若者たちによって「近代」そのものが運動的に批判されるに至った。それは、女性解放運動・障害者解放運動・部落差別反対運動、さらには、「入管体制」が体現しているような民族差別に対する反差別運動等に、強い影響を与えた。また、反公害・反開発・反原発等の地域住民運動にも、広く影響を与えていった。
⑧ 1960年代~1970年代―〈生の収奪〉に抗して
同じ頃、「寄せ場」の暴動が頻発する。石炭から石油へという「エネルギー革命」でヤマを切り捨てた国家・資本は、高度成長維持のために国土開発・土建に頼り、列島各地に「寄せ場」を作ってヤマ(炭坑)からヤマ(山谷・釜ヶ﨑などのドヤ街)へ、列島に穿たれた地下の坑道を使って、底辺労働者を流動化させた。
高度成長で生まれた「一億総中流意識」層の眼前から、隔離、排除された日雇い労働者たちは、暴力団が公然と根を下ろす飯場で、徹底した〈生の収奪〉を受ける。その抑圧に対して、その強いられる流動性を反転させることで、「寄せ場」労働者を先頭に、大衆的な怒りが数次に渡る暴動となって爆発し、現場闘争が何度も何度も繰り広げられた。
⑨ 1970年代―〈生の分断〉に抗して
反公害・反開発等の地域住民運動は、「生命圏」(=地域社会の再生産と自然の循環が行われる圏域)としての地域の中に、自分・たちの生を位置付け、相互扶助の関係性の中で生を営んできた地域住民が主体となり、「地区労」等の労働運動や市民運動がそれを支援する形を取ることが多かった。
国家・資本は、地域住民の間に亀裂を生じさせ、それを利用し、莫大な資金を投下し、生命圏の可塑性をも収奪する。しかし、「原発爆発公害」に象徴されるように、今や、その可塑性すら収奪され尽くし、地球規模で危険な状況に陥っている。
⑩ 1980年代・90年代・00年代→そして現在 ―〈生の捕獲〉に抗う
ネオリベラリズムを推進軸とした資本主義は、グローバリズムを推し進め、これまでにも増して膨大な貧困層を生み出しているが、生産過程を構造的に改変し、労働者を分断することに成功している。今や、攻防の主戦場は労働現場にあるとは言い難い。
かつては「寄せ場」にあった〈生の収奪〉に抗する「やられたらやり返せ(船本洲治)」という言葉に象徴される現場闘争が、「黙ってのたれ死ぬな(船本)」の闘いを生き、90年代以降、野宿者の生存闘争へと比重が移ったように、労働を巡る闘いは、正規労働者から非正規労働者へと比重を移していく。それは、まさに「寄せ場の全国化」と言われるような事態の中で起きている。
00年代には、そうした非正規労働者の労働組合として、「フリーター」労組運動群が叢生し、その中には、未払い賃金の要求を大衆団交で行い、デモでは「全ての生の無条件の肯定」を叫ぶ若者たちが出現した。
そして〈3・11/12〉以後の原発現地、経産省前、官邸前、国会前の大集合・阻止行動は、もはや革新政党や労働運動が主導しているとは言えない。また、労働現場の直接の利害対立とは距離を置いたところで運動が起きている。そのことが運動的な弱さとなって表れている面がないとは言えないが、これも労働現場から攻防の主戦場が移ったことの現れであろう。
生産労働の現場での攻防を制しているネオリベ資本主義・国家は、今や「国家安全保障」や「社会保障」の危機を盛んに煽り、列島上のすべての〈生の捕獲〉を狙っている。「労働者」や「労働」という概念そのものを溶解させ、資本と利害対立するなどとは考えない、丸裸のバラバラな個として自身を認識させ、進んで国家の庇護の元に入り、自らの欲望を国家意思に自己同一化しようとする従順な「国民」へ収斂させることを狙っている。その意味で、2015年夏の国会前での大合唱「国民なめんな」は、現在の社会運動の大きな危機を物語っている。自らを「国民」と自称することは、〈生の捕獲〉に抗う意志を毀損しかねない危うさをはらんでいるからだ。
⑪〈2011年・3・11/12〉以後―「原発爆発公害」に抗う
〈3・11/12〉以後、「生殖」・「生命」・「生存」・「生活」・「生業」を一瞬で奪った「原発爆発公害」に抗う〈生のサンジカ〉の希求の動きが、「自主避難者」たちの運動や、補償を求める裁判闘争、放射能の「自主測定」運動、再稼働阻止の運動、核廃棄物に至るまでの核燃サイクル反対闘争、さらには原発輸出に反対し世界の民衆との連携を模索する運動といった、多様な形で現れた。
とりわけ、子どもたちを放射能の被曝から守る立場で、数百もの団体が次々と立ち上がり、放射能汚染地帯からの「移住」・「保養」の支援や、食べ物の放射能測定、「自主避難」の権利を訴える行政交渉等に、間髪を入れず取り組んだ。4ヶ月後には、「子どもを放射能から守る全国ネットワーク」が結成される。
〈3・11/12〉以後、国内の全ての原発は、運転を一時停止していた。しかし、2012年4月の大飯原発再稼働決定以降、政府は、折あらば既存の原発を再稼働させようと、画策し続けている。その動きに対し、反・脱原発運動が列島各地で粘り強く展開されている。
「自主避難」の権利を求める運動に対する「帰還」圧力が凄まじい中で、改めて反・脱原発運動から〈フクシマ〉へ折り返すことが求められている。
そのように、「原発爆発公害」によって損なわれた「生の毀損」を撃ち返す〈生のサンジカ〉の希求の動きが、列島各地にある。
⑫ 2019年・天皇の代替わり― 私・たちは〈生のサンジカ〉の希求を貫く
今、この列島では、天皇の代替わりを巡る論議がかまびすしい。無論、私・たちはこの代替わりを黙ってやり過ごすことはできない。しかし、天皇制はアジア・太平洋戦争の敗戦から73年間、「平和憲法」に組み込まれた「象徴天皇制」という、「天皇制の最高形態」(管孝行)を生き延びてきたのだ。そのことに対応する闘いの陣形をいかに創り出すのかが問われている。
今、私・たちが天皇制の解体へ向けて取り組むべきこと それは、ここまで触れてきた、この100年間民衆が苦難を乗り越え引き継いできた〈生のサンジカ〉への希求を、私・たち自身が引き継ぎ、列島上の多くの人々と共に、それを生きることである。
〈生のサンジカ〉は、日本国家存立の宗教的根拠たる天皇制の権威への畏敬をはるかに凌駕する民衆同士の力強い結びつき、〈生の組み=合い〉であり、それが列島各地で希求されるとき、天皇制はもはや畏怖すべき対象ではなくなり、その存在意義は失われる。そのように、列島全土の〈生のサンジカ〉化は、日本国家の宗教的存立根拠としての天皇制を無化し、やがて解体に向かわせることだろう。
3.〈生のサンジカ〉の希求の現在の戦線のありか
今や、一方で、労組の「ナショナルセンター」と「革新」政党が車の両輪となって諸社会運動を牽引するという日本の社会運動の「古典的範型」が崩れて久しい。他方で、ネオリベ資本主義が、かつては市場原理が及ぶとは思われてこなかった医療、介護、育児等、近代福祉国家がそれなりにカバーしようとしてきた「生の再生産」の領域にまで浸透し、そこを市場化している。
もはや、一家の主が家族を養うために外で稼ぎ、その妻が子育てや老親の介護をしながら夫を職場へ送り出すという家族モデルは、賃金の低下に伴い崩れ去った。家庭内にいた女性も、賃金の支払われないシャドーワークをこなしながら、あるいは、それを外部化して市場に頼りながら、男性より更に安い賃金で買い叩かれて、労働現場に連れ出されているのが現状である。
こうなると、資本・国家VS社会運動の攻防の主戦場は、生産現場にはない。むしろ、今日、攻防の前線創出の可能性は、生の再生産の領域にこそ、あるのではないか。
近年、ネオリベの浸透により、生の再生産の領域での雇用が急増し、多くの人々の労働現場となっている。さらに、そこでの労働は、何らかの生の困難を抱えた人々に対応するという、繊細な「感情労働」を強いられる「ケアワーク」が占める割合が高い。生の困難者と、不安定で不利な形態で雇用されることが多い「ケアワーカー」が、一方は「ケア」を受ける対象に押し込められ、もう一方は最低賃金でありながら高度な感情のコントロールを常に強いられている。
「福祉国家」という看板をかなぐり捨てたネオリベ国家と資本が一体化して、人が相手を気遣う力を収奪して、福祉労働市場を成り立たせているのだ。人と人とがどのように相手を気遣い、繋がり合うのかという課題を、かつて「福祉国家」は「国家を介して解決する」としてきた。しかしそれが破綻すると、資本と一体化したネオリベ国家は、その課題を資本主義的関係に切り縮めた。かくして、生の困難者と「ケアワーカー」は、極めて不自然な資本主義的関係の中で向き合わされている。
敵は、ネオリベ国家であり、究極的には近代資本制社会である。この一点に於いて、生の困難者と「ケアワーカー」は、同志たり得る。共闘は不可避である。資本制社会に在って、生き難さにあえぐ人々が増え続ける中で、「ケアワーカー」や、家族として「ケアワーク」を続ける人たちもまた、増え続けている。このことはネオリベ国家や近代資本制社会にとって、未解決の弱点でもある。
これらの点から、攻防の前線創出の可能性は、生の再生産の領域にあることは間違いない。問題は、生の困難者たち、家族や関係者ら困難者を「ケア」する者たち、様々な「ケアワーカー」たち、これら3者がまさに〈当事者〉として、資本・国家に対抗し、分断を超えてトライアングルを形成することができるかどうかである。
100年を経て「米騒動」を受け継ぐ現代の闘いは、生の再生産の領域で、「当事者トライアングル」を形成する者たちが、資本・国家に対抗して連合した時、つまり、「結び=合い」(=〈生のサンジカ〉)を希求した時にこそ、生まれるのではないか。その闘いのキーワードは、不可避に〈すべての生の無条件の肯定〉である。
〈すべての生の無条件の肯定〉 1918年米騒動以来、この列島の民衆運動が引き継いできたこの旗。傷つき汚れたこの旗を再び掲げることで、「私・たちはここにいるぞ!」と示したい。生きることの根を資本・国家に蹂躙されても、やられっぱなしでなく、抗うために顔を上げて繋がろうとする者たちが、その下に集い合えるように、この旗を高く高く掲げたい。
4.〈生のサンジカ〉の希求を再審する未決の〈問い〉
1918年米騒動は、前近代と近代とがぶつかり合ってダイナミズムを生んだ。
近世から近代の入口までの社会では、民衆の〈生きるための必要〉を保障することは、共同社会を統治する者が負う当然の責務として観念されていた。富山の港町ではその観念が、米の積み出しを拒否し、廉売を引き出す風習として残っていたのである。その観念が、大都市や鉱工業地帯で階級形成が図られようとする前夜のタイミングで、労働者や下層民の前に、今でもあり得べきものとして立ち現れ、彼ら/彼女らの背中を押したことで、ダイナミズムを生んだのだ。
しかし、それ以降1918年規模の騒動=運動が起きていない。それは、明治末期から析出されてきた「社会」、すなわち「近代社会」の内部に人々の生が包摂されるという「近代化」の進行ゆえではないのか。
近代以前の近世では、被治者がたとえ「客分」を気取っていようとも、その生存権は、一方的に治者の側の責務としてあった。しかし近代になると、生存権は、国家の構成員として「所得」を得る=「所を得る」ための個々人の「義務」であることが強調される。つまり近代化によって、生存権は、国家の構成員として生存する者たちに、国家から付与される権利となった。
しかし〈すべての生の無条件の肯定〉という理念は、近代的な生存権の延長上にあるものではない。1918年当時に福田徳三が提唱した「極窮権」に近い、近代の論理では語ることのできない生存権 それは、近代を突き抜け、未来に向けて構想する想像力の延長線上にしかありえないのではないか。
そうだとすれば、私・たちが、1918年米騒動から100年の民衆史を、〈生のサンジカ〉の希求の系譜として捉えてきたそのアングルに、近代化の論理をベースにした無意識の枠は、なかったと言い切れるのか
新たな問いが浮上する。
ここに、〈生のサンジカ〉を再審する〈修羅の女の長い列〉を想起せざるを得ない。
修羅の女、それは 列島の底で長い長い列をなしている女たち
修羅の女、それは 列島社会の亀裂に落ちた者を、抱きしめ抱きしめ、修羅場を闘い、生きる女たち
修羅の女、それは 限りなくおろおろと「悶え神」に近づきながら、限りなくそこから遠ざかり、聖者であることを拒む女たち
修羅の女、それは 見殺されるのを承知で敗者を抱きしめ、見殺されるのを承知で勝者の喉首に喰らいつく女たち
修羅の女、それは 耳をすませば、今も列島底部にその所作・声がECHOとして流れる女たち (SCENE5 より)
この列島を吹き抜けた「近代」が穿った亀裂に落ちた者は、数知れず。その者たちを抱きしめ、抱きしめ、修羅を生きた女の長い列は、今も続いている。私・たちは、その長い列が発する声を聞き分けているか?その長い列がはらむ未生の夢を分有しているか?それらの声・夢を包み込むことなしに、この列島の〈生のサンジカ〉はありうるのか?
これらの〈問い〉の前に自分・たちを晒し、絶えず自分・たちを再審しながら、それでも私・たちは、もっと遠くまで行かねばならない。
Ⅲ. 私・たちは〈どこ〉へ行くのか
① 〈介護の社会的自治〉こそが、100年の〈生のサンジカ〉の希求の系譜に繋がる
未決の〈問い〉を抱えながら、私・たちは、〈すべての生の無条件の肯定〉という旗を掲げ続ける。「当事者トライアングル」の形成に向けて、闘いの現場を創り出していかねばならない。
1990年代末に「介護の社会化」を求めたのは、長期にわたるシャドーワークの苦難を突き破る女性たちの声だった。高齢者は、未だ〈当事者〉たりえなかった。
2000年に「介護保険制度」が施行されてから、はや18年 この間「介護の社会化」は、NPOのいわゆる「アントレプレナー」たちの奮闘ぶりに、未来を委ねたかのように見える状態が続いた後、次第に「介護のネオリベ化」へと反転され、その内実は「ネオリベ化=縮退」となって進行した。いまや国家は、その「介護の縮退」を、窮地に決まって持ち出す「伝家の宝刀」たる「地域再生」をもって、更には『我が事・丸ごと共生社会』なる誘導装置の創出をもって、合理化しようとしている。まさに「地獄への途は『地域』で敷き詰められている」のだ。待っているのは、「よそ事・空事・身勝手社会!」ではないか。
かつて、シャドーワークとして家庭内で「ケア」を続けてきた女性たちが求め、実現するかに見えた「介護の社会化」が、「介護の反社会化」へと反転し、その実質は「介護の縮退」となって現れているという「問題」 この「介護『問題』の社会化」こそ、これまで「ケア」を受ける側に押し込められ、対象としてしか認められて来なかった高齢者たち自身が声を挙げることによって、為されなければならない。
「生産労働/再生産労働」のつつがない循環を守ろうとする「福祉国家」の破れ目を、押し広げ立ちのぼる声 その循環からは廃用とされ、「福祉国家」の体裁によって辛うじて「老後の生」として扶助されている高齢者の声が、「老後の生」としての『自立への封じ込め』に抗い、老境にあっても自らの生の〈自律〉を求め、「生産労働/再生産労働」の循環によって成り立つ近代資本制そのものに異議を唱えるその叫びこそが、「介護『問題』の社会化」を推し進めるのだ。
近代社会が「老い」を廃用の坂道に追いやりながら、近代の「爛熟」の果てに、高齢化社会→高齢社会→超高齢社会とアップテンポに変異し、膨大な高齢者群を死に追いやるか、かすかに生の余地を与えるかのあわいをよろめいているこの時代だからこそ、高齢者が、この時代の〈むこう〉へと次世代を繋ぐ「ジェネラティビティ」の担い手になるのだ。(半世紀前のボーヴォワール渾身の〈問い〉=「老年期において人間が一個の人間であり続けるためには社会はいかなるものであるべきか」、「老人の境涯を受諾しうるものとするためには、人間全体をつくり直さねばならず、人間相互のすべての関係を根本的につくり変えねばならない」に応えるのは、今日ただ今の、高齢者自身だ。)
高齢者群が発する声に呼応して、「ケア」家族たちの中からも、「ケアワーカー」たちの中からも、「介護『問題』の社会化」を担う〈当事者〉たちが立ち上がり、「当事者トライアングル」が形成される。そして、その先には、「介護の社会化」の反転の反転が見えてくる。無数の「当事者トライアングル」の連合が目指す「介護の社会化」とは、「介護の社会的自治化」に他ならない。
「介護の社会的自治」は、米騒動からの〈生のサンジカ〉の希求の系譜に繋がる。そして、その核心は〈高齢者生存組合〉が担うのだ。
② 「生の再生産の社会的自治」の創出に向かう多様な「当事者トライアングル」の連合を!
国家・資本制社会と諸社会運動の攻防の前線は、今や、生産労働の領域から、生の再生産の領域へと移行している。では、この生の再生産領域での運動の戦線を、どのように形成していくのか。
この列島に潜在する幾多の「当事者トライアングル」が、国家・資本からの分断攻撃に抗って〈組み=合い〉ながら、現在の「ケア」システムの問題点を浮き彫りにしていくのだ。言うまでもなく、生の困難者は高齢者に限らない。例えば、幼児・児童・生徒の中の生の困難者たちと保護者たちと保育・教育労働者たち、障害者たちと介護家族らと介護労働者たち、他にも、ひきこもり・犯罪被害者・元受刑者・失業・極貧・無権利状態の外国籍の人々・性的マイノリティ等様々な困難を強いられる人々と、「ケア」する家族や関係者らと、地域社会の中で支援する立場の者たちというように、多種多様な「当事者トライアングル」が潜在しているのである。それぞれが国家・資本に抗って〈組み=合い〉、連合して、ダイナミックな社会変革の推力を創出する 私・たちは現在、こうしたイメージで、生の再生産領域での「戦線」の形成への筋道を考えている。それは、同時に、〈すべての生の無条件の肯定〉の旗の下、「生の再生産の社会的自治」の創出に向かうものである。
③ 二つ、三つ、数多くの〈高齢者生存組合〉をつくれ!
「リャンナジあるいは共生の力がもはや『日々の出費』ではなく、人間という概念の豊かさに対する配慮となるまで、われわれの想像力を高度必需のうちに投企しよう」(*「高度必需品宣言」から)
〈高齢者生存組合〉
それは、上に引用した「高度必需品宣言」にならって、高齢者の「飲み、食べ、生き延びることの直接的必要性」(「散文的なるもの」)の充足から「自己成熟への要求」(「詩的なるもの」)の全き充足にいたるまでの実現を求める要求者組合である…と、言ってみたい誘惑に駆られる。
しかし、無理矢理にでもその誘惑を振り切り、私・たちは、あえて、現行の高齢者の「介護」などに関わる法・制度に即した変革に向けて、<高齢者生存組合>の存在意義を言い切らなければならない。
〈高齢者生存組合〉
それは、高齢者がこの社会に存在することにおいて負わされる、多重の負荷からの解放を求め、闘う「最終〈組み=合い〉・サンジカ」である。「最終組合」は、「最終(last)」の字義通りに多重の役割を課題とするが、その核心は、高齢者の最低限度の必需から最高度の必需までを求める要求者の〈サンジカ〉である。
生の困難な「高齢当事者トライアングル」の一角をなす〈高齢者生存組合〉は、当面の最低限度の必需ラインを「障害者基本法」
それは、「国連」を媒介に結節した世界の障害者の闘いと、それに呼応した、この列島における長年におよぶ障害者の苦闘が勝ち取った、障害者の最低限度の必需の現在の水準の指標である
に置き、「介護保険法」を反転し返す「介護保障法」への転位を推し進め、その〈先〉に、多種多様な〈生の困難者〉にとっての最高度の必需の指標たるべき、総合的な「社会サービス法」の創設を、永続的に求め続ける。
〈高齢者生存組合〉
それは、高齢者の最低限度の必需から最高度の必需までを求める要求者の〈サンジカ〉であるのだが、そうした要求を求める営み(アクション)を〈高齢者の都市への権利〉として永続的に推し進める〈サンジカ〉である。この〈高齢者の都市への権利〉においてこそ、なお『権利条約』に至っていないとはいえ、すでに1991年に『高齢者のための国連原則』に結実している『独立・参加・ケア・自己実現・尊厳』の理念が、要求を求める営みの内実として現実化され、実定化されなければならない。その進行に応じて、『高齢者の権利条約』が着地していく可能性が現実化するだろうし、高齢者の要求をめぐる〈なにを〉と〈どのようにして〉の一体化の必要性が、誰の目にも明らかになるだろう。
こうして〈高齢者生存組合〉は、国家・資本によって収奪されている「都市の奪還」の一翼を担うことになるだろうし、『生の再生産の社会的自治』の核心となるだろう。
二つ、三つ、数多くの〈高齢者生存組合〉を創れ!
〈高齢者生存組合〉は、〈すべての生の無条件の肯定〉の旗の下に、この列島社会の全ての者の<生=命>が革まるまで、遠くまで行く。
*「高度必需品宣言」については、『思想』2010年9月NO.1037 『「高度必需」とは何か―クレオールの潜勢力―』参照 この「宣言」で、「リャンナジ」と言われているものこそ、私・たちが執着している「サンジカ」にあたる。
④ 最後に
今回お出かけいただいた菅さん、水野さん、佐藤さん、そして私・たちが、為していること、あるいは為そうとしていることは、それぞれ熟度・強度の違いはあれ、相互に補完し合うものとしてあるように思われる。言ってみれば菅さんの〈陣地戦論〉を頂点にして、水野さん、佐藤さん、私・たちの営みあるいは試みは、相互に補完しあう、言ってみれば、ひとつの立体を構成しうるような関係にあるように思う。それを確かな立体として立ち上がらせ、推力を与えるためには、今後今回のような企てを、多くの人々とともに、さらに重ねていくことが必要であるように思う。もし合意できるようであれば、そのような企てを共同して進めたいと思う。