11月2日 木島始 カンタータから
  声のドラマ〈脱出〉声のドラマ   千波万波を乗り越えん
カンタータ「脱出」 動画

 

全アジア民衆法廷 最終判決
 (主文)
被告人を有罪とし、無期懲役に処す

 (理由)
 本件公訴事実について判断するに、被告人が1932年関東軍の柳条湖よりの吉林省侵入に対して「各地ニ蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ」云々の勅語を与え、1937年盧溝橋よりの中国侵略に対して「朕カ軍人ハ百難ヲ排シテ其忠勇ヲ致シツツアリ」云々の勅語を与え、また南京攻略に対して「深ク満足ニ思フ此旨将兵ニ申伝エヘヨ」云々の言葉を与え、さらにまた1941年日米開戦を宣して「億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ違算ナカラムコトヲ期セヨ」云々の詔書を発したことは、事実として疑う余地のないことであるが、弁護人は、被告人が内閣の決定を履行せざるをえない立場に在った旨主張し、いわば「機関説」的見地から被告人が決定主体たり得ていないが故にそれらの決定の責任を問うことができないと言うのであるから、その点について見るに、
 被告人が統帥権の主体たり得ていないという主張については、1936年「2.・26事件」の際の被告人の明確な行動、また1931年関東軍に対していったんは軍を退くことを命令した事実からして、到底肯首しがたいものであるが、弁護人はそれらをきわめて例外的なものと主張するのであるから、さらに事実を子細に見るに、
 被告人が「盧溝橋事件」に関して臨戦戦費を裁可する際に「ソ連が背後から立ったらどうするか」と質問したこと、また日米開戦の二箇月前より開戦の際は詔書を発する必要のある旨内大臣に指示したこと、同時に「戦争終結の場合の手段を初めから充分考究し置く要あるべし」と指示したこと、さらに皇族が参謀総長に就くことに関しては「戦争にでもなるおそれのあるときはどうかと思う」と明確な反対意見を述べたこと、などから判断して、被告人は充分に決定主体たり得ていたと推認されるが、さらに、
 ハワイ作戦裁可の際に被告人は「このようになることはやむを得ぬことだ、どうか陸海軍はよく協力してやれ」と発言し、また同作戦の成功に際しては「度々云う様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思う」等と発言しているのであるから、弁護人の「機関説」的見地とは逆に、被告人は完全に決定主体たり得ていたことが明らかであり、従って被告人の責任はこれを免れることが出来ないと判断せざるを得ないのであるが、しかし弁護人は、被告人が一貫した平和主義者であり、自ら終戦を決断して国民を救済した旨を強調し、もって被告人に責任のないことを主張しているのであるが、
 仮に被告人が平和主義者であると考えるならば、1932年より1945年までの14年間に一度も和平に関する提案を行わなかったことは理解に苦しむ処であり、また1945年戦争終結は被告人の「決断」によるものであるとする主張も、同年前半までの被告人は「米軍をピシャリと叩くことは出来ぬか」等と発言し、戦争による解決をめざしていたことが明らかであり、そのように自ら意思した戦争継続によって原爆投下・ソ連参戦等の状況を招き、俗に言う処の「ケツに火がついた」状態での「決断」であるのだから、しかも最後まで「国体護持」のみに腐心しつつの「決断」であるのだから、弁護人の解釈は採用することのできないものであるが、
 弁護人は、情状として、被告が戦後マッカーサーに対して「自分の身はどうなってもよい」旨述べたこと、及び毎年の「戦没者慰霊式典」において被告人が反省の意を表していることを述べているので、それについて考慮するに、
 被告人のマッカーサーに対する発言は確かに「マッカーサー回想記」に記されているものであるが、同時に通信員ローターバッチは両人の会見の際に被告人が「開戦は国民の望み」であり国民の意思に従わざるを得なかった旨述べていることを記録しているのであるから、この点は情状の材料とはなり難く、また、戦後43年の被告人の言動を見るに、一度も謝罪の言葉を述べていないのみならず、1973年の記者会見における戦争責任に関する質問に対しては、「言葉のアヤ」「文学方面のこと」等と述べて回答を拒否したのであるから、被告人の悔悛の情はいかにしてもこれを全く認めることが出来ない。
よって被告人に主文のとおり言い渡す。
昭和63年末日
アジア太平洋戦争 アジアの死者たち
 


註 :桐山 襲「異説 東京裁判 その主文と理由」を「全アジア民衆法廷 最終判決」と〈仮装〉したものである。
もうたくさんだ行進!
高齢者生存組合を
ブラック企業 ゼロにしろ!
とめるぞ!志賀も川内も