Jammers Net Concept
  

SCENE 1  プロローグ:
ニューズレター

2018年5月

 2018年4月28日、県内外から30名余りが集い、SCENE1が始まった。
 始めに主催者側が、途中で「プロローグ」用に作成した動画を挟みながら、本プロジェクトの趣旨を語った。
 次に、アナキズム研究者・栗原康さんから、本プロジェクトや「プロローグ」動画についてのコメントがあり、米騒動にまつわるトークがあった。
 最後に、プロジェクトの趣旨説明や栗原さんのトークを踏まえて、参加者の間でフリートークを行った。
 フリートークでは、「暴動」の無目的性と「運動」の目的意識性についてや、1918年米騒動そのものの意義にこだわるのか、そこから100年間の民衆運動に受け継がれてきたものに注目し、今後に生かすことにこだわるのかなど、「米騒動100年」を巡り、いくつかの論点で意見が交わされた。
 以下、当日の本プロジェクトの趣旨説明と栗原さんのトークを中心に報告する。

ニューズレター SCENE1 pdf版

〈プロジェクトの趣旨・Ⅰ〉
私・たちの立場と県内の状況

 今年、「米騒動100年」と題していろいろな催しが県内外である。しかし、県内の企画は、米騒動を都合のいいところだけ呼び出し、消費する傾向がある。
 米騒動から100年が経っているのに、1918年のみ取り出して、間に横たわる100年を見ないような言説には興味がわかない。私・たちは、「おらが町の出来事自慢」をしたいわけではない。地元紙:K新聞のように、現代の諸相を嘆くために米騒動を呼び出したいわけでもない。米騒動に関わった県内の知識人やジャーナリストを称えたいわけでもない。

私・たちの立場

  • この「米騒動100年プロジェクト」を通じて私・たちがやりたいのは、米騒動からの100年間のこの列島民衆の「結び合い・繋がり合い」の経験の歴史―をつかむこと。この「結び合い・繋がり合い」を、私・たちは〈生のサンジカ〉と呼んでいる。
  • 「サンジカ」とは大正期、生産現場で人と人とが組み合ったサンジカリズムの組合運動を下敷きにイメージしているが、生の総体を組み合うという意味で〈生のサンジカ〉と言っている。
  • その〈生のサンジカ〉を求めた民衆の100年の経験を受け止めたい、そしてこの先の100年をどうすべきか、に生かしたい。これが私・たちの課題である。
  • 始めに「米騒動100年」をめぐる県内の状況について、批判的に紹介する。
  • その後、これからの100年に向かう展望について述べる。

県内の状況

① 官民一体で「郷土読本」づくり?

最も盛んな魚津では、歴史民俗博物館、NPO法人米蔵の会、魚津歴史同好会、魚津市の自然と文化財を守る会などが、顔をそろえて11月にフォーラムを開催するとのこと。
先日、魚津で企画を進めている二人から話を聞いた。

・歴史民俗博物館:真柄一志館長さん
『100年前からある民家から、「家訓」なるものが見つかっている=貧者を助けよ―「貧民救助規定」の制定にもつながる町民の自治の力ではないか。町民がこのような力をもつ立派な町だ』と魚津の町を称揚していた。
しかし、血縁・地縁の助け合いを基本とし、働けない者や身寄りのない者だけに、一定の米を国家が与えるという明治期からの「恤救規則」下の市町村の姿として、これは特別なことではない。

・米蔵の会:慶野達二さん
ドキュメンタリー映画「百年の蔵」を制作中で、「米蔵が見続けてきたものは何か?」というサブタイトルがついている。制作中の映画について伺った。
当時、請願行動を取ったおかかたちが掛け合った米屋さんが「まかせておけ」と米屋仲間に相談して売り上げの0.5%を拠出した。
今も続くその米屋さんを訪ねて高校生がそのこと(=「真実」ということらしい)を教わる・・・つまり、「見続けてきたもの」は、「哀願行動であり、それに応えた立派な米屋や町会、町役場があり、100年前から助け合いの町だったというもの』魚津の住民が「誰も彼もがWe love Uozu.」となるというあらすじである。

この二人の話は、初っぱなを担った魚津だけは「暴動」とは認めないとしながら、全国的に暴動化したことの「成果」として、寺内内閣を倒し、普通選挙制へ繋げたと「誇る」。つまり、都合のいいところをつないだ「郷土読本」づくりになっている。
事実、この「郷土読本」は、ご都合主義。1918年以前の魚津の米騒動を語らない。富山県史によれば、「1897年(明30)5月末に魚津町で数百人が米屋に押しかけ値下げ要求→9月、凶作により米価高騰、魚津町漁民米屋を襲撃」とある。明治22年=8年前にできた貧民救助規定が、歯止めになっていない証拠があり、このことから、「魚津は特別」とは言えないはずである。

② 歴史認識を欠いた言説に力はない

郷土紙:K新聞「米騒動100年ひるまず たおやかに」(たおやかに=「嫋やか」:おしとやかで上品なさま)は、米騒動の切り取り方を暗示している副題がついた連載記事は、第1~4部まで進み、以下のようになっている。

第1部「いまに息づく」―魚津「郷土読本」路線

第2部「ゆらぐ民主主義」―先人の苦労により得た選挙権を棄権する無関心を嘆く

第3部「地域の絆」―民生委員・青年団・果ては結婚相談所→関わりの希薄化を嘆く

第4部「貧困と格差の今」―生活保護引き下げなど(現代の貧困と救援の様をスケッチ)

つまり、現在ある諸制度はどのような成立過程を経てきたのかという歴史的なカテゴリーを通さずに、目についたものと100年まえの出来事とを繋いで、論じようとしている。例えば「民生委員」、「青年団」、「選挙制度」などである。

  • 「民生委員」-米騒動後の貧困層への対策である方面委員制度に始まるが、大阪の林知事とともにそれを設置した小河滋次郎は、「方面委員は社会秩序を脅かす未来の危険を、貧困者の日常的な監視によって防ぐ、いわば『測候所』」=社会秩序を脅かさない範囲で救済を行い、国家秩序に服従するよう誘導する、洗練された社会統制の形態とも言われた。
  • 「青年団」-日露戦争後、政府が在郷軍人会,愛国婦人会と並んで青年団組織を強化し,戦時体制の強化をはかろうとした。関東大震災では、青年団は自警団となり朝鮮人虐殺の先頭に立った。また、日本による植民地統治の一政策として、朝鮮、台湾、南洋諸島などでも日本の青年団組織が導入され、活用された。
  • 「選挙制度」-米騒動と普選運動は順接していない。つまり、「あのような直接行動を2度と起こさせないためにも議会制の導入を」と普選運動に繋げた。しかし、今、議会制=「間接性」の限界にぶつかっているのではないか。つまり、注目すべきは米騒動の「直接性」の方ではないか?

これらの歴史性を踏まえても、なお無邪気に並べられるのか。
 

③ 二番煎じ、三番煎じをまだ飲ませるつもり?

向井嘉之さん、金沢敏子さんら県内ジャーナリスト-「米騒動100年記念フォーラム」題名「女一揆、魂を揺さぶられた越中の男たち」―「「女一揆」の意義を記録したのは、横山源之助、井上紅花、細川嘉六…米騒動から100年に当たり、研究者やジャーナリストが米騒動の意味を紐解く」とのこと・・・。

当時の知識人・ジャーナリストは、米騒動を倒閣や普通選挙運動に結びつけようとした。モラルエコノミーからの直接行動を、「議会制度へのアクセス権の要求」へと自分たちの問題意識に引きつけて翻訳/代弁していった。そのような在り方を是とする立場から、県ゆかりの知識人・ジャーナリストの米騒動への関わりを再評価し、表彰することは、何度も繰り返して意味があることだろうか。米騒動を担った全国の民衆自身よりも代弁した知識人・ジャーナリストにスポットを当て、代弁を代弁するというのは、もう二番煎じ、三番煎じである。さらに、それらの話自体が、既に何度も諸氏が語っていることではないのか。(チラシを見る限り)

私・たちはこれら①~③のものとは、歴史観、社会観において大きな認識の隔たりがある。私・たちの立場は、根底的なところで言えば、既成の秩序から脱落してでも、既成の秩序が強要する関係を壊してでも、人との本当の繋がり=水平で開放的で相互扶助的な繋がりを求めてきた民衆の歴史を見ていきたいということ。 哀願したら収まりました/今こんな立派な制度があるのだから、もっと制度内でがんばればいいのに/知識人・ジャーナリストがしっかりリードして…というような側面を強調する話では、わくわくしないのである。

プロローグ

 

 

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各SCENEのテーマ
OPENING 
SCENE 1 プロローグ:「耳を澄まそう!『米騒動』のエコーが、 『じゃなかしゃばが欲しかよ』の声が・・・聞こえる」
SCENE 2 「THE SHOUTS」   水橋―滑川のおっかあたちの叫び
SCENE 3 『米騒動』から100年―民衆の経験史をたどる:〈生のサンジカ〉の希求の系譜
SCENE 4 「『米騒動』と朝鮮」―異聞「雨の降る品川駅」
SCENE 5 PART1 ドキュメンタリー:熊谷博子「三池を抱きしめる女たち」
     PART2 「修羅の女の長い列」
SCENE 6 「富山の女が拓いたもの ―『米騒動』/『富山型デイ』―その〈先〉へ」
SCENE 7 PART1 群読:『米騒動』から100年の〈後〉に
     PART2 問題提起:菅孝行(劇作家・評論家)+討論  「私・たちは〈どこ〉へいくのか」

〈プロジェクトの趣旨・Ⅱ〉
これから100年に向けて

 

米騒動を受け継ぐべきは、誰か→それは自分・たちである

  1.  「自分たちが声を挙げれば社会を変えられるのだ」  1918年米騒動は当時の社会に大きなインパクトを与え、大正期の諸社会運動の背中を押した。さらに普通選挙運動につながり、議会制民主主義への道を開いた。  これがオーソドックスな見方である。
  2.  しかし100年の民衆運動は単なる一本の線ではない。一つの運動には後世に繋がるいろいろな可能性があって、あるものは実現して花開き、またあるものは地下に潜っていて、あるときふっと浮上し社会を動かす運動に繋がる、というようにイメージできるのではないか。
  3.  例えば、代議制が行き詰まり、国会や地方議会が人々の欲求や要求に対応することが難しいことがはっきりした今日、「米騒動」は「議会制」への道を開いたと見るよりも、むしろそうでない方の可能性を見たい。
  4.  「米騒動」とは、無権利状態の者たちが集まって、自分たちの生を脅かす者に対して、「自分・たちの生を無条件で肯定させよう」とした民衆の直接行動であった。「極窮権」(福田徳三)の行使  この闘いの本質は、組織労働者「ワーキングクラス」よりも、不安定就労層を含むいわゆる「アンダークラス」の闘いに、より強く引き継がれてきた、と私・たちは見ている。
  5.  この30年近くで、父親は外で稼ぎ、母親は育児や介護を含む家事に専念、子どもは学校へという近代家族像は崩れた。同時に、大きな労組のナショナルセンターと「革新」政党が両輪となって諸社会運動を牽引するという社会運動の範型も崩れ去っている。だから、国家・資本主義対社会運動の攻防の主戦場は、今はかつてのように生産現場にあるとは言えなくなっている。むしろ、生の再生産の領域に攻防の主戦場は移ったと考えるべきである。
  6.  今や、医療、介護、育児等の生の再生産領域にまで資本は手を突っ込み、「生の収奪」というべき事態が起こっている。資本の側にしてみれば、「労働力商品としては価値のない者たちをどのように生かしておくべきか」という問題であるが、労働力として商品化できなくても、消費(労働)はさせられるから、彼ら/彼女らの周辺に介護労働やサービス労働の市場を作り、いかに活性化させるかというビジネスチャンスの問題として今のところ先行させているのだろう。
  7.  しかし、人の生は資本のためにあるのではない。すべての生は生を営む本人のものであり、その意味でどんな時代でも無条件で肯定されるべきものである。国家や資本を敵に回し、労働力商品化に抗し、最後までどれだけ図太く主体的に生きてやるか。隣人たちとそのような同志としての「結びあい・繋がり合い」=〈生のサンジカ〉がつくれるか 今、闘いの主戦場はそこにあると言ってよい。
  8.  だから、100年後の今「米騒動」の闘いを受け継ぐべきは、生の再生産領域にいる生の困難を抱える当事者たちであり、その人たちをケアする困難を抱える者たちであり、低賃金でハードワークを強いられるケアワーカーたちである。
  9.  それらの存在=「全ての生」を無条件で肯定し、広い意味での相互扶助の関係の中に積極的に取り込むこと 資本主義的価値観からすれば切り捨てられる存在であっても、そのことを黙って受け入れず、秩序が求める役割を蹴って、それに抗い、自らの意志で自由に、開放的に、水平に「結びあい・繋がり合う」ことができるか。それが、列島社会の今後の100年を占う鍵になるだろう。私・たちは「すべての生の無条件の肯定」という旗を高く掲げ、そのような人々と共に闘いたい。
  10.   この場も、既成秩序からはみ出した「結び合い・繋がり合い」の場になっていければいいし、それが列島社会の今後の100年をつくることに繋がればいいと思う。
米騒動100年プロジェクトSCENE1
米騒動100年プロジェクトSCENE1
米騒動100年プロジェクトSCENE1
米騒動100年プロジェクトSCENE1

COMMENT  栗原 康(アナキズム研究)

はじめに

 こんにちは。栗原と申します。先ほど紹介されましたように、働いているのは週1日だけで、他の6日間は、家でほぼひきこもりのような生活をしています。肩書は大学の非常勤講師です。山形にある大学(東北芸術工科大学)の文芸学科で、かなり自由にやらせてもらっています。
 一学年40人ぐらいで、学生は「小説家になりたい」、「漫画家になりたい」というので、他大学の学生のように「就活、就活」というような活動をしていません。
 僕は政治思想を受け持っています。「政治思想といえば、アナキズムでしょ」ということで、大杉栄やクロポトキンなど、いろいろ教えても、目を輝かせて聞いてくれています。自由にやっています。たまにやり過ぎることもありました。
 アナキズムの考え方の一つで反労働ということがあります。賃金に縛られなくて、自分のことは自分でやれ、好き勝手に生きるという発想を著した「働かないでたらふく食べたい」という僕の著作があります。授業中にアジって、「働かないでたらふく食べたい」と5回ほど連呼したら、就活で大変なときなのに、不埒な教員がいるということで、ものの見事に苦情が来ました。私の上司が事務所から怒られたのですが、「彼は自分の著作のタイトルを話しただけです」と話して、事なきを得たそうです。本当にいい大学だと思っています。
 米騒動の時に活躍していた大杉栄を研究して、2013年に評伝を書きました。また、彼のパートナーであるウーマンリブの元祖と言われている伊藤野枝の評伝も書いてきました。さらに、何を血迷ったのか、「アナーキストの元祖かな」とも思ったので鎌倉時代の一遍上人を研究して本を出しました。

今日のプロローグ映像について

 「プロローグ」の映像のことについての感想を言います。これは素晴らしいです。これを見ただけで日本の戦後の社会運動を網羅的に、米騒動からつなげて論じられているので、すごい。しかし、これを1年間でやるのは大変だなと思いました。
 途中で出てくるラップの歌「コメコメコメッ、ハッ、ダイソードー」というのがすごい。本当に素晴らしい。
 米騒動の影響は強くて、三井、三池闘争、谷川雁がやっていた大正行動隊のことへとつながっていく。それも見て取れる映像だったので大変素晴らしいと思いました。この後、米騒動の炭鉱での話もしてみます。

米騒動と大杉栄

 今日は、米騒動のことでよんでいただいたので、コメントがてら自由に話します。アナキズムの観点からいうと、大杉は米騒動を直接見て、暴動そのものを評価した唯一の人だと思います。彼がおもしろいと思っているところを紹介します。
 米騒動が富山で7月に始まって、富山の主婦が「米よこせ」という、はじめは請願運動だったのですが、請願ではダメなので米屋を襲撃した。廉売所をつくれというやさしいものではなく、めちゃくちゃに攻めたてた。自分たちが買える米代で、米の廉売所を作らせていった。
 大都市でガンガン拡がっていった。最初は富山と同じで、廉売所を作らせた。米屋を襲うところから、金持ちがやっている貴金属店、百貨店、交番などを襲撃し、壊すことを繰り返していった。
 規模として大きいのは、大阪です。京都、名古屋も強かった。東京にも飛び火した。東北はあまり拡がらなかった。近畿から中国、四国、九州へと拡がった。
 僕が一番好きなのは、大阪の米騒動です。大杉栄が直接見ていたからです。その時の新聞記事を見るとリアルでおもしろい。
 大杉の米騒動観について紹介してもいいかなと思ったのですが、2年前に富山に呼んでいただいたときに紹介したので、大杉栄の米騒動観のPARTⅡとして、炭鉱のストライキ、山口と福岡の炭鉱の話を紹介します。
 暴動、そのもののなかにあるアナキズム的なもの、アナーキーなもの、そこから拡がってきた〈生のサンジカ〉を紹介しようと思います。

踊り念仏・アナキズムについて

米騒動の話を直接する前に、アナキズム、アナーキーということを話してみます。
 はじめは大杉栄を使って紹介しようと思ったのですが、大杉栄の研究をした後に、一遍上人の踊り念仏について研究する中で、その思想の中に大杉栄がアナーキーというものに賭けていたことと共通するものがみえてきたので、一遍上人の踊り念仏について紹介してみます。一遍上人とアナキズムということを話した後に、米騒動の話をします。

 踊り念仏じたいが暴動で、800年前の元祖米騒動だと思っています。
 一遍上人は、自分の思想を尋ねられると詩吟で返していたようです。踊り念仏についての「和歌」が2句あるので、自分の緊張感を和らげるためにも、ここで吟じます。

 「はねばはねー おどらばおどれー はるこまのー のりのみちをばー しるひとぞしるー」 
 「ともはねよー かくてもおどれー こころこまー みだのみのりとー きくぞ うれしきー」  (拍手)

 今、一番緊張しました。下手で申しわけありません。今のは、一遍上人が「踊り念仏とは何か」ということを聞かれたときの返答としての2つの和歌です。
 簡単に解説します。
 「はねばはねー おどらばおどれー」というのは、「はねたければ、はねればよい、おどりたければ、おどればよい」ということです。「はるこまの」というのは、春に、独楽(こま)です。春独楽というのは、竹馬に子どもが乗って、ぴょんぴょん跳ね回っている、子どもが遊んで時間を忘れて夢中になっている状態です。エロい意味もあります。発情期の治まりがつかない馬のことを春駒という。それくらい夢中になっている状態です。「のりの道をぞしる人ぞしる」の「のり」というのは「法」で、仏の教えのことです。一遍上人は浄土宗で、阿弥陀仏をあがめているわけですが、実はあがめてもいない。仏は信じなくてもよいとも言っているのです。
 「仏」の教えは、実はアナキズムに近い状態です。何ものにもとらわれていない状態、何ものにも支配されていない、自由無碍な状態を「仏」といっています。
 「のりの道をぞしる人ぞしる」は、「はねたければはねろ、おどりたければおどれと、子どもや発情期の馬のように踊っている状態になったときに、仏の境地を知る人が知るであろうと。
 もうひとつの「ともはねよ・・」というのは、「ともにはねよう」ということかと思いましたが、「とにかくはねよ」と。何も考えずに、とにかくはねよ、踊ってしまえ。「こころこま」は魂を込めてはねよ、踊り狂え、「弥陀のみのりと聞くぞうれしき」仏の自由無碍な状態、何も考えずに、踊り狂うと仏の境地に自分自身も一体化する、こんなうれしいことはない。ということです。この2つが踊り念仏の和歌です。
 この踊り念仏というのは、発想も面白いし、やっていることもユニークなのですが、一遍上人というのは、浄土宗から出ています。この浄土宗というのは、元々、法然が始めた宗派ですが、それが鎌倉時代に出てきたばかりのときには、とにかく「南無阿弥陀仏」という言葉を唱えてさえいれば、誰でも仏の境地に達して救われると言っていました。それは当時の人々にとって、非常にラジカルな思想でした。つまり、その時代の仏教界というのは支配体制のヒエラルキーの頂点に立つものであって、ちゃんと働いて年貢を納めることができないのはダメな奴で、そうならないようにしっかりと働けと農民を責め立てるようなところがありました。
 人間が有用性や能力で判断されるような世俗の世界で生きるのが苦しいからこそ出家したはずなのに、いざ仏門に入ってみると世俗の競争主義がそこでも根強くあって、経典の文字が読めて解釈もできて、身振り手振りも交えて仏の教えを巧みに語ることができるというのはほんの限られた人たちであって、そうしたエリートの僧侶に下の者たちは従うしかない。結局、それができない人たちは、使えない奴だということになってしまう。だからこそ法然という人は、そんな仏教界はクソ食らえ!ということで、仏というのは、本来、誰にも束縛されないものだし、誰でも仏に成れなければおかしいということで、「南無阿弥陀仏」と唱えるようになったのです。
 そのように、法然の教えは、反権威主義だし、ある種のアナキズムとさえ言ってもいいようなものですが、そうした法然の教えがその後、一遍の時代にはどうなってしまったかというと、その教え自体が弟子たちの間で権威になってしまうわけです。最初は、「南無阿弥陀仏」という言葉さえ唱えていれば誰でも仏に成れるということだったはずなのに、弟子たちが余計な議論をするようになります。例えば、「南無阿弥陀仏」と10回唱えればいいという人もいれば、いや、1回でもいいから心を込めて唱えなければならないという人もいるというように、正しい念仏の唱え方を学ばなければならない、ということになってしまって、結局、古くからの仏教界と大して変わらないようなありさまになっていました。
 それに対して親鸞は、成仏するには「南無阿弥陀仏」と唱えることさえ不要で、ただ仏を信じてさえいればいいのだ、と主張して、そうした権威主義をぶち壊そうとしたのです。しかし、親鸞の弟子たちにはそのことがうまく伝わらずに、仏を信じる心というのは誰にも計りようがないものなのに、意見の違いから教団内に分派ができてしまう。そのような状況に対して、一遍は、「もう一度初心に立ち戻って、人間が何物にも縛られない状態というのはどうやったらできるのか考えましょう」と訴えたのです。そのときに、周囲の人たちが一遍に「南無阿弥陀仏」の心とは何かと尋ねた。一遍は、「信、不信を問わず」、つまり、「仏なんかは別に信じなくてもかまわない」と答えたわけです。要するに、「信じていれば救われる」と思うからこそ、逆に自分の行為について見返りを期待して、「もっと有用な存在に成ろう」と思ってしまうのであって、「まず、そのような心のもちかたを捨てましょう」ということです。
 「それではどうすればいいのか」と問う人たちに対して一遍は、「とにかく南無阿弥陀仏と唱えていればいいんだ、唱えていれば自ずと分かるから」と言うわけです。その答えを聞いても、最初は、誰もが「はあ?こいつは何を言っているんだ」ということになるのですが、一遍はそれを本当に集団でやり始めてしまう。最初は30人ほどで始めるのですが、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ナム・ナム・ナム・ナーム!」と不眠不休で集団で唱え続けることを三日三晩やると、全員が「よく分かった!」となるのです。つまり、「南無阿弥陀仏」とひたすら唱え続けていると、もはや「南無阿弥陀仏」という言葉の意味さえ消えてしまうような境地に入ってしまう。
 また、三日三晩も唱え続けていると、自分の声が自分で分からなくなるぐらいに自分でも思いもよらないような声が出てくるし、誰が言っているかも分からなくなってしまうほど周囲がワア-という声で満ち溢れているような状態になる。そのような状態の中で、「念仏とはこのようなものだ」とか、「世間ではこのように生きなければいけない」といった固定概念が全て取り払われてしまうし、念仏を唱える中で自分とは思えないような得体の知れない声が自分の口から出てくる。しかも、一度そのように念仏を集団で唱え始めると、何日でも唱え続けることができるような力がみなぎってくる。おそらく、「そのように自分の限界を超えた力が自分の中からわき上がってくるような体験を通じて、何物にも束縛されない自由な境地に達することができるはずだ」というのが、集団で念仏を唱えることを通じて、一遍が訴えたかったことではなかったか、と思います。
 当時の念仏というのは、歌のようなものだったらしいのですが、そのように一遍が念仏をリズミカルな節回しで唱えている内に自分でも思わずテンションが上がってしまって、庭で足を踏みならしたり、くるくると廻って飛び跳ねたりしながら踊り始めてしまう。そうすると一遍がそうするものだから、周りの人間も同じように皆で飛び跳ねて踊り狂うわけです。また、その時、一遍は、知り合いの武士の館に泊めてもらっていたのですが、家の中に上がり込んで勝手に茶碗を持ち出して、もっと人々を煽ろうとして楽器のように叩き鳴らして、エンドレス状態で踊り始める。しかも、当時の踊り方というのは、かなり荒っぽいものだったようで、先ほど「とにかくはねよ」という言葉を紹介しましたが、足をバンバン床に打ち付けて跳びはねるので、ある武士の館では床が抜けてしまったという話が残っています。そのように、声を出すだけではなく、体力の限界を超えて踊りまくる。
 盆踊りでもクラブでも踊りの経験のある人なら分かると思いますが、ある種のトランス状態に入ると、体力の限界を超えて同じ動きをいつまでも続けることができる。三日三晩踊りまくっている間に、廻りの人たちがバタバタと倒れていって、下手をしたら人が死ぬんじゃないかと思うような状態なのに、それでも踊ってしまう。そのようにしていると人がどんどん集まってきて、最終的には江ノ島の片瀬という場所に数千人規模まで踊りの輪が広がっていって、120日間連続で踊りまくったという記録が残っています。それは間違いなく、人が死んでいるだろうというレベルの話ですが、そのような人々の動きの中に、自分の中の得体の知れない力というか、自分でもコントロールできないような力を感じるということを、一遍は、「仏」と言う言葉で呼んでいたのではないかと思います。そのように自分の意志すらも超えて身体が動いてしまうということを、アナーキーと言ってもいいように思います。
 実は、アナキズムやアナーキーといった言葉もそうしたことに通じるところがあって、アナーキーという言葉は、ギリシャ語の「アルケー」という言葉に否定を表す「アン」という接頭語がついたものですが、「アルケー」というのは「権威」という意味なので、アナキズムというのは「反権威」ということになります。ただし、この「アルケー」という言葉には、もう1つ「起源」という意味もあって、アナキズムはそれを否定するわけですので、何に由来したり、何を目的にしているかも分からないような「無秩序」ということにもなります。一遍の踊り念仏というのもそうした話に通じるところがあって、最初は大きな寺院の権威主義をぶち壊せということから出発したと思いますが、しだいにそうした初発の目的すらも取っ払ってしまうような力に突き動かされて、自分でもよく分からないまま、120日間も踊り続けてしまう。そのような状態にまで突き進んでしまうような人間のもつエネルギーというものも、「アルケー」の否定としてのアナキズムのある種のあり方ではないか、と思います。
 これからお話しする「暴動」というのも、その中で踊り念仏と同じようなことが起きているように思います。暴動が起きるときには、最初は間違いなく「反権威」というか、「俺たちが稼ぎのないダメな奴だと罵られて食うや食わずの生活をしているのに、金持ちだけがのさばっている世の中が許せない」ということで始まるのだと思います。しかし、自由奔放に暴れまくっている内に、そうした当初の思いさえどうでもよくなってしまって、人間が何者にも束縛されないという状態が多くの暴動の中で出現していたように思いますが、そのことについては、これから詳しく紹介したいと思います。
 なお、これは憶えておいてほしいことなのですが、踊り念仏というのは、後の時代になるとだんだん宗教性を失っていって、「盆踊り」と呼ばれるものになります。盆踊りというのは元来、非常に激しい踊り方をするものだったりするのですが、その盆踊りと『米騒動』とのつながりについては、また後で触れたいと思います。

米騒動論 大杉栄 Part2

それでは、本題の「米騒動」に入らせていただきます。
 先ほどちょっと、大杉栄の米騒動論PART2、みたいなことを言いましたけれども、大杉栄は当時33歳くらいで米騒動を目撃しているんです。
 彼は、米騒動についてはあまり文章を書いていないと言われているのですけれど、有名なアナキストですから、官憲にマークされていたので、ずーっとスパイが大杉栄に張り付いていました。だから東京に帰ってから大杉が、米騒動について何をしゃべっていたのかの記述が残っているんです。大杉栄については、1921年から22年くらいまで、官憲のスパイがとった記述がめちゃくちゃ残っているんです。ただ22年頃に、大杉の近くにいた和田久太郎という人がスパイを「発掘」しちゃって、それ以降、ほんとに記述が残っていなかったりするんです。もちろん当時の人たちからすれば、スパイはいない方がいいんですけれど、今からすると、スパイのおかげで何をしゃべっていたのかわかるんです。
 ひとつ読み上げてみます。大阪の米騒動を見た回想記です。

―自分は今回の暴動事件を目撃して、社会状態はますます吾人の理想に近づきつつあるを信ず。しかして今日の勢いをもって進めば、後幾年を経ずして意外の好結果を来たらすかも計り難し。政府も今度ばかりは少々目を醒ましたるらん。貧者の叫び、労働者の狂い、団結の力、民衆の声、嗚呼愉快なり。― 『大杉栄伝』P29

 これが、大杉の暴動に対する率直な感想です。ものすごく単純なんですけれど、テンションがアガッテいるのがすごく伝わります。もうちょっと読んでいくと

―自分の考えにては幾年という期間を待たずして、このまま革命し得らるやも知れず。されど現今の叫びはたんに労働者階級の人のみなるをもって、何人かこれが率先者として決起するにあらざれば、せっかくの蜂起も水泡に帰するの感あり。もっとも今後どれほどの犠牲を払うとも、決して本運動を中止するは不可なり。あくまでも運動を継続して邁進せば、必ず何人か傑出することあるべし。露国今日の状態は面白からずや。日本も同様の結果を見るまでは、吾人互いに戒めて軽率なる行動を為さざる様心掛けざるべからず。― 同P29

 要するに、「ぶっ殺されないように警戒しながら動きましょう」と。殺されるんですけど。でも、そういうことを言っています。
 もう一つ、東京でも大阪の米騒動について話しています。

―大阪においては米屋の襲撃焼打、警察・軍隊と群衆との衝突状況等をも見物せり。群衆中に混じりて彼等の談話せるところを聞くに、中にはほとんど余等同志の所懐と同じきもの少なからず、真に愉快を感じたり。― 同P30

 要するに、群衆がほぼアナキストみたいになっているということです。

―とにかく、今回の騒擾に徴すれば、群衆が集合せば必ず何事かを為しうること疑いなく、かかる際には警察力はあえて恐るるに足らず。― 同P31

 これは実際そうなんですね。大阪では、警察を全部蹴散らすんです。

―しかも軍隊の出動により、軍隊に対して人民の反感を誘致したるは面白き事実なり。― 同P31

 大阪は軍隊にやられるんですけれど、ただ軍隊が派遣されたことで、民衆が軍隊に反感をもつようになった。

―しばらく軍隊が出動せる状況を見るに、将来かかる出来事の起こりたる際には、爆弾等の必要あるを覚えたり― 同P31

 これが警戒している人の言葉でしょうか?

―しかれども米騒動よりも山口・福岡等における炭鉱夫の暴動はさらに一層重大なる意味ある現象として同志の注意を要するところなり。― 同P31

米騒動論 炭鉱にて

ここまでが、米騒動で残っている二つ目の記述です。よっぽどテンションがアガッていたんでしょうけれど、「爆弾」という言葉がでてくる。なんで「爆弾」という言葉が出てきたのかというと、当時の新聞報道で、山口県の沖ノ山炭坑というところと福岡県の岩瀬炭鉱で、「ダイナマイトが登場した」という記述が出ていたんですね。そこまで抗夫たちがやり始めているということで、大杉が「何事かがある!」と思ったわけです。それで実際に、後には北九州とかに同志たちを派遣して、労働者の仲間を募りに行ったりとかもしているんですけれど。
 ここで見てみたいのは、大杉が面白いと言っていた山口県の沖ノ山炭坑です。
こちらの方が規模が大きいので、こちらの話をメインに話させていただいて、その後続けて、福岡県の岩瀬炭鉱の暴動がどのようなものであったのかを紹介していきたいと思います。
 まず、沖ノ山炭坑は山口県の宇部というところ(当時は宇部村)にあります。人口は3万人ほどです。3万人のうちだいたい1万5千人くらいが暴動に参加しています。炭坑で働いている坑夫の数は1万人ぐらい。沖ノ山炭坑にはちょっと特徴があって、軍艦島みたいな感じです。人工の島を造った海底の炭鉱なんです。第二炭鉱が人工島の下で、第一と第三炭鉱が本州の方にあります。海岸沿いに坑夫たちが住む長屋があって、街中(まちなか)というのが本州の奥の方、山の手に登れば登るほどいろいろな商店とか、金持ちの邸宅のようなのがバーッと並んでいる、そういう村なんです。
 山口県内ではだいたい8月14日ぐらいから米騒動が波及してきていて、宇部の村とか炭鉱以外の町々では、富山と一緒で主婦たちが米屋を襲って廉売所を設置させる行動だったりとか、あるいは街の民衆たちも暴動を起こしたりして商店を襲うみたいなことをやっています。炭坑に暴動が波及してくるのは16日のことです。
 ほんとうにそうなんだなと思うのは、米騒動というのは、完全に貨幣経済が浸透した後起こっている暴動なんですよね。要するに、貨幣経済が浸透して都市化・工業化が、がんがん進んでいきます。だからこそ炭鉱も重要になってきて人が増えていくわけですね。実際宇部村も、工業化で一挙に人が増えていったんです。当然ながら、工業化が一挙に進むということは、もともと農民だった人たちが労働者になるわけで、農業人口がいっぺんに減るわけです。それで米不足になって、米の値段がガーンと上がっていく。
 やっぱりすごいことです。一升の米が、その前の年まで11銭とか12銭だったのに、60銭とか70銭、80銭とバーンと上がっていくわけですよ。7倍、8倍、9倍にバーンと上がったら、買えないですよ!坑夫の日給は、だいたい12時間とか13時間働いて、ほんとにたくさんもらえた人で90銭とかそんなものだったらしいです。だから、一日働いて帰ってきても満足に食べられるほどの米が買えない。一日12時間も働いていたら、畑でも耕して自給自足するなんて絶対無理ですからね。お金に頼らざるをえない。だからこそ、坑夫たちも米が買えないんだから、米よこせみたいな行動に出るしかないんです。
 実は、宇部とかでも富山県の例をちょっと見習って、初めから米がもらえるように、自治体とか炭坑王といわれている金持ちとかにある程度出資を募って、それで米を備蓄して分け与えるみたいなことは案としてでていたのです。
 おもしろいなと思うのは、「それをやるようにするから、お前ら、ちょっと我慢してくれ」というのを、坑夫たちは「今食えないのだから、今もらえなきゃ意味がないんだよ!」ともうブチぎれて、そんな要請は全部蹴ってしまい、「今米をよこさないんなら、まずは米を買えるだけの金を出せ!」と、まず賃上げの要求からはじまるんですよ。
 第一炭坑から賃上げの要求が始まって3割増しの賃金を要求する。ただ16日の時点では警察に丸め込まれちゃうんです。当時労働組合の争議には、警察が入って仲裁したりしていたのです。「代表者をだせ」と言われて、2,3人くらいで行って、その警察の署長が「俺が炭鉱主と話をつけてやるから」と言って、「2割増しくらいならいいって言ってるぞ」「わかった」みたいな感じで、代表者2,3人が帰っていくわけです。ただそれじゃあ不満なんですよね。「食えねえよ!」みたいな感じで、ワーッと盛り上がっていく。火がつくのは翌日から。
 17日になって、その噂が第二炭鉱・人工島の方にまで広まっていくと、噂が噂を呼んで、「第一炭鉱では5割増しの要求が通ったらしいぞ」という話がまき散らされるんです。「俺たちもいけるぜ!」「5割増しだ!」「断固それでいく!」みたいな。それで「集団で襲うような感じでいこうぜ!」と第二炭鉱で結集をかけて3000人くらい集まるんです。でも全員では行けないからと、何百人かで事務所に押しかけて要求を突きつけにいくんですけれど。ただ、事務所に来てもお偉いさんはいないんですよ。「コノヤロー!」みたいな感じになって帰ってくるんです。おもしろいのは、帰ってきたら、船に乗って警察署長と警官隊がバーッとやって来て、また同じことを言うんです。「おれに任せておけ、賃金交渉何とかしてやるから」と。でも「5割増し?それは無理かもしれない」と言った瞬間に炭鉱夫たちはみんなブチ切れる。
 炭鉱夫の言葉ってかっこいいいなと思うのは、キイワードになってくる言葉が「たたっ殺すぞ!!」なんです。
 「ふざけたこと言ってると たたっ殺すぞ!!」って感じでワーッと言っていたら、警察署長がビビッて、「船をもどせー」とか言って帰ろうとする。しかもおもしろいのは、署長が帰ろうとした時、まわりがあまりにもびっくりしすぎて、あわてて提灯を下に落としちゃったらしいんです。それを街の方で見張り役で上から見ていた人が、提灯が落っこったのを見て、「署長が海に沈められたー」と。警察がみんなパニックにおちいるんです。もうぐっちゃぐちゃになって。それで、17日のうちは警察がほとんど機能しないという状態になってしまう。
 こっちでは、3000人の坑夫たちがどうするか。もう署長は帰っちゃったし、しょうがないと。賃上げ要求は通るかわからないし、これはもう「米屋を襲うしかねえ!」ということで「もっと人数を集めるぞ!」となっていく。
 当時は竹ボラというのがあって。貝で作るホラがありますよね、あれを竹で作ったものがあって、それをピャーーーっと吹く。ピャーーーー ウワーーーーって歓声が上がっていって「第一炭鉱へ行くぞー!!」と。第二炭鉱から3000人が一斉に船で本州の方に押し寄せてきた。
 最初は武器がなく、石や棒ぐらいしかなかったようです。そしてまずは配給所みたいなところがあるのでそこを襲おうかと。それで事務所と配給所を最初に襲ったんです。中に入ると、つるはしとかがあるわけです。「武器があるぞー」といってみんなでつるはしを取りに行き、「みんなに分け与えろ」と。それで抗夫たちがみんなつるはしを持つんです。興奮気味に書いてある記述って、やっぱりすごいなと思うのですが、巨大なつるはしがあったらしくて、巨大なつるはしが出た瞬間に、「ワーッ」と歓声が上がったりするんです。これでいける、という感じです。それで米屋と穀物屋をみんなで襲撃します。
この米屋の襲撃というのがすごくて、街の衆だったら最初は米の廉売とかから始まるのですが、炭鉱夫はすごいですね。賃上げの要求が通らないとわかると、コメが買えないとわかると、最初米屋が出てきた瞬間に、出てきた言葉が「たたっ殺すぞ!」。廉売の要求すらないんです。「うわー」とか言って米屋を襲い、メッタメタにぶっ壊すんです。それで持てるものは持ってというので、米や麦を持ったりするんですが、ただ、これから街にも行きたいのであまり持たないんです。そして米屋や穀物屋を壊した後に、何をしたかというと、これほんとに偉いな思うのですが、とった米袋を全部切って、それを道路に全部ぶちまけるんですね。穀物とか麦とかも全部ぶちまけたらしいです。炭鉱夫が来たときに、街の衆はみんな、女性とか男性とか不良少年などが抗夫たちの群がりに一緒になっているから、炭鉱夫が米をばらまいた瞬間に、バーッと群がってきて、「米をとれ」とか言って、米を持ち去っていったのです。だからこの時点で炭鉱夫たちがやっていたことって、ある意味義賊ではないですが、米を奪い取ってそれを民衆に配っていく、そういうことをやっていたらしいんです。だから炭鉱夫が行くところに群衆がついて行き、炭鉱夫がぶっ壊したらそれを群衆が奪い取っていく、そういうことの繰り返しが暴動のパターンになっていたようです。
ただちょっとおもしろいなと思うのは、抗夫たちもだんだんテンションがアガり、ある抗夫が、「道路にぶちまけるだけではだめだ」と言い出し、穀物をいっぱい持ちながら、なぜか海のほうへ行くんですね。それで海のほうへ行って何をするかといえば、穀物をぶちまけて、海にバーッと撒いちゃうんですね。それで海が一面真っ白になってしまうんです。さすがにそのあとしばらく異臭が漂っていたらしいです。おもしろいですよね。「何やってんですか」というような動きが始まっているということです。
そのうち、海岸が近いので、人がガンガン集まってきて、その17日の夜の時点で、人数は一万人を超えていたということです。で、この一万人の衆で、これならいける、もっとやれるぞというんで、完全に暴動となって、山の手のほうに行くわけです。町へ行こうということです。そして行った先でまたおもしろいのは、抗夫たちの長屋街と、金持ちが住んでいる間くらいに、酒屋があるんです。酒屋の親父もテンションがアガッていて、「行ってこい、やってこい」という感じで、酒樽を出してくるんです。もう「ただで飲んでくれー」という感じで。抗夫ですから酒樽を見るとワーッと飲み始めて、ベロンベロンに酔っぱらうんですね。「エンジン全開だぜ」という感じで。そしてベロンベロンになりながら街へと繰り出していくんです。福岡でもそうですが、抗夫たちの騒動の特徴は酔っぱらっているということかもしれませんね。
酔っぱらって抗夫たちが街に行くと、金持ちが買うような呉服問屋とか、貴金属店とかがあるんです。福岡も山口もそうなんですが、そこで出てくる言葉が面白いんです。店に行っても抗夫たちが酔っぱらっていうことばが、「たばこくれ、マッチくれ」というんです。いつも買っている日用品しか浮かばないんでしょうね。それで、ないとわかると、「やっちまえー」といって中に入ってぶっ壊すんです。それでぶっ壊して何をするかというと、呉服店とか貴金属店とかをぶっ壊しても宝石とか使わないんですね。だから「こんなもの使えないや」と言って、道路などにぶちまけていく。米などは略奪しているんですが、そのほかに商店で一番かっぱらっていたのは、実は石鹸だったらしいです。体を洗う日用品が欲しかったんでしょう。石鹸とたばこが多かったということです。貴金属店は、抗夫たち、きらきらしたものとかいらないですし、あまりそういう貴金属を奪っていく人もおらず、群衆のなかにもいなかったようです。そういうところもおもしろいなと思います。
 で、この後さらにエスカレートしていくわけです。山の手に行くと、当時宇部には大きな遊郭があったのです。もちろん遊郭はお金が高いし抗夫たちは行かないんですが、貧乏な娘たちが売られていくところなわけです。そして成金とかが遊郭にいき、そこの女子たちが奴隷のように扱われているということで、遊女に対してではなく、遊郭に対してもとても反感を持っていたのです。だから三千人くらいの群衆で遊郭を取り巻くんです。そこで遊郭の死闘みたいなことがあり、それがすごいんです。群衆が遊郭を取り巻いたら、遊女とかは避難して逃げるんですけれども、遊女たちをかこっている店主ややくざ者たちがいるわけです。群衆に向かって「ぶっ殺すぞ」みたいなことを言うわけです。それにたいして群衆が「やれるもんならやってみろ」とか言うと、遊郭の店主がピストルをぶっぱなしてくるんです。バンバンバンと撃つとウワーとかなって、抗夫たちはつるはしで応戦するわけです。ピストル対つるはしで、このときは抗夫たち、圧勝するんです。つるはしで打ちのめして、やくざ者をやっつけてしまうんです。それで遊郭のなかに乗り込んで、「こんな遊郭、支配の象徴みたいなものはぶっ壊してしまえ」と、最初壊していたんですが、そのうち誰かが「これは火をつければ」と言って火をつけたら、バーッと燃え広がったんです。これで遊郭炎上するんです。遊郭を燃やし、これおもしろいのは火がつくと、火を見た群衆というのは止まんなくなってしまうんです。「これはいけるぞー」とテンションがアガりまくって、「最後の敵は金持ちだ」と。
それでさらに登って行って、当時山の手に宇部の炭坑王と呼ばれていた、渡辺祐策というおじいさんがいたんです。良心的と言われ、抗夫たち想いで、賃金などを上げようとしていたと言われているのですが、もちろん抗夫たちにとっては支配者の側にあたるんです。そのおじいさんの自宅に、まず数百人がガーっと乗り込んでいくわけです。当時そのおじいさんは風邪をひいていたらしく、寝込んでいたそうです。家の人が、「抗夫たちが暴徒化してやってくる」と言ったら、最初は余裕で「抗夫たちは、かわいいやつらだ」などと言っているんです。「あいつらは俺の子どもみたいなもんだ、あいつら俺の顔を見に来たんだ」と話していたそうです。「話せば何がしたいのかわかるから大丈夫だ」と、「俺が会いに行く前に酒をふるまってやれ」といい、客間のようなところで何人かに酒を飲ませていたらしいんです。しかし抗夫たちはすごくて、皆酔っぱらっちゃうんです。そして酔っぱらった抗夫たちは何をするかというと、渡辺さんの自宅をつるはしで打ち壊し始めるんです。家の人もギャーと言って、「渡辺さんもうだめです」と言い、風邪を引いた渡辺さんをかついで、上のほうに逃げていったというんです。それで渡辺宅をめちゃくちゃにして、ある抗夫たちは火をつけて燃やそうとしたんですが、さすがに渡辺さんのことを良く思っていた抗夫たちが、後で火を消して、渡辺宅は炎上しなかったそうです。
ただここまでくると人の動きって面白いものだなと思うのは、そこまで圧力をかけていたら、渡辺さんが出てきたら、賃上げ5割くらい通ると思うんです。でもそういうことではない、そういう動きはしないということが見えてくるのがこの動きのおもしろさですよね。
それで抗夫たちは夜になって疲れて寝るんですが、翌日18日の夕方あたりにみんな起きてくるんです。それで起きてきて、仲間がいないことに気付くんです。群衆が暴れると何人かは警察に捕まるので、夕方になって「俺たちの仲間がいないじゃないか」と騒ぎはじめるんです。これは「警察に持っていかれたに違いない」ということで騒ぎになり、翌日になってまた3000人で警察署に押しかけます。そして警察署を取り巻いて、3000人で「返せコール」をやるわけです。「仲間を返せ、そうしないと警察署ごとぶっ壊すぞ」と。
これ笑えておもしろいのが、また例の署長が出てくるんです。署長が警察署のうえの窓から出てきて、「警察署の皆のもの、ドアと窓をみんな開けよ」と言うんです。そしたら警察署のドアと窓が全部開くんです。それで抗夫たちに何を言うかというと、「分かった、これで昨日捕らえたものは全員釈放する」と。「俺は嘘は言わない。見よ、すべて空いているだろう」と。「攻め込みたければいくらでも攻められる」と。「だけど、俺はみんなを信頼しているからすべて開けたんだ」と。「俺を信じてくれ」というんです。すると抗夫たちは、「そうか」と言い、みんなぞろぞろと帰っていくんです。これ、ほんとに戦国時代の空城の計のようでおもしろいですよね。家康が武田信玄にやられてぶっ殺されそうになって、城に逃げ込んだ時に、やられないように城を全部開けておいたという、あれと同じことをやって、そして群衆が皆帰っていくわけです。
でもこれがひどいのは全部嘘っぱちなんです。抗夫たちが帰った後、署長がなにをやるかというと、即軍隊に電話をかけるんです。警察だけでは何もできないので、陸軍の一個団体、六百人くらいですが、そこに電話して来てくれと。そして夕方には軍隊が出動してきます。夜になっても仲間たちが帰ってこないので、3000人の群衆がもう一度警察署に押しかけるのです。そのときにはもう軍隊がいるんです。600人の軍隊が警察署の周りを取り巻いていて、銃を向けている。そして炭坑夫が凄いですよね。軍隊に向かっても「たたっ殺すぞ」ということを言ったりして。そして群衆のなかにも凄いのがいて、「どうせ撃てない」と思って、銃の先を口の中に入れて、「撃てるものなら撃ってみろ」と挑発なんかして。
ただ、おもしろかったのはここまでなんです。保守王国の山口県、凄いなと思うのは、軍隊がマジで撃ってくるんです。最初は一歩下がって空砲を撃ってくるんですけど、みんな空砲だって気付くから、「大丈夫だ、行けー!」とツルハシ持ってガーッと突進していく。軍人もパニックに落ち入るんですね。もう「やらなきゃやられる」みたいになって。で、実弾込めてマジにぶっぱなしてくる。600人がバーッと一斉に射撃した。結果どうなったのかというと、30人が重傷。バタバタバタと倒れもがき苦しんでいる。うち13人が死亡。
 だから、米騒動の中では群衆の規模が大きかったのは大阪なのですけれど、実は群衆の側の被害が一番大きかったのは、この山口の沖ノ山炭鉱でした。13人が死亡なんで。
 さすがにこれで、群衆は散り散りになって完敗して逃げた。捕まらないように山へ逃げた者もいる。一度やられた後はもうやられまくっていって、1700人が逮捕、うち300人が起訴です。2人が無期懲役になっていて、1人は朝鮮人坑夫だったんです。
 ほんとう、山口ひどいなと思うのは、殺された13人いるじゃないですか。その人たちの身元がわからないから、わかるまでといって13人全員の遺体を土に埋めるんですよ。首だけ出すんですよ、臭くなってくるまで。「首検分」とか「首実検」とか言って。それをずーっとやっていた。なんか恐えーな、というかほんとうに。弾圧は弾圧でめちゃくちゃ厳しいし。
 この宇部の沖ノ山炭鉱では盆踊りを禁止しています。群衆が集まると何をやり始めるかわからないから。
 あと、この沖ノ山炭鉱については、いろいろ高校の先生が研究されていて、その先生の研究論文をネットで読めたりします。いろいろ難しいのですが、ダイナマイトの記述とか、日本刀を出したという記述があると言われています。多分これは、警察側が群衆に発砲してぶっ殺していますから、警察側に正当性があったというために、警察側が「記録」として出したんじゃないかとも考えられています。でももしかしたら、日本刀くらいは出ているかもしれないですね。大阪とかでも出てたりしますし。ただ、ダイナマイトはホントは出ていなかったと思います。

 次に、お隣り福岡県の岩瀬炭鉱の話をさせていただきたいと思います。実は、こちらの炭鉱ではダイナマイトが登場しています。
 こちらでも14日から市内が暴動で、福岡の街が騒乱状態になっていたらしいんですけれど、炭鉱まで米騒動が波及してくるのは17日になります。
 こちらも流れは一緒で、賃上げの要求をして失敗して、米が置いてあるところの配給所を600人くらいで行動していたんです。でもこちらの第三炭鉱では大規模な暴動にはなっていなかったんですね。ほかの所とも連動して暴動を起こそうとしたのですけれどなかなかうまくいかない。仲間を集めようとして触れ回っていた炭鉱夫たちが、たまたま警察隊と出くわしちゃったりするんです。そこで仲間1人がパクられちゃって、その仲間を取り戻そうとしてこん棒をバーンと警官に振ったら、警官がそれをかわしちゃって、それが仲間に当たっちゃうんです。頭に当たっちゃって、意識を失って昏睡状態になってしまって、みんなで病院に担いでいく。そんなこともあって、最初は大きな暴動にはなっていなかったんです。
 ところが17日の夜。酔っ払いのやらかしからはじまったんです。第二炭鉱のほうですけれど、安全灯室といってヘルメットをしまっている部屋があって、そこに酔っ払った青年坑夫2人がいた。なぜか一人の青年がぶつぶつ言いながら、のこぎりで柱を切っているんですよ。もう一人の青年がツルハシで柱をぶっ壊そうとしてエイッエイッエイッってやってる。そこへ警察が「ヤメロー!」と言ってワーッと襲ってくる。それで青年2人はワーッと逃げた。逃げながら、そのうちの青年一人がダイナマイトに火をつけてウワーって投げる。バーンと爆発。被害はないんですけれど、ないといっても交番がぶっ壊れたかもしれないという、そういう記述が残っています。
 その辺のところから群衆の気持ちがアガッてきて、夜中から翌日まで炭坑夫たちが街に繰り出して行動をやっている。その対象になるメインはもう商店とかじゃないんです。人数も少ない。最終的には50人くらいの坑夫たちで「行くぜ!」と言って廻っていく。街にある交番をとにかく襲う。派出所をぶっ壊して逃げて帰ってくる、ということをやっていたんですけれど、坑夫たちはなかなか強かったらしくて警察は全然手が出ない。
 ということで、小倉から歩兵第47連隊というのが送られてきて、最後は坑夫たち50人くらいが軍隊に囲まれる。囲まれて、軍隊と真正面から対決だ!という時に、一人の青年が真正面からダイナマイトを2個放り投げた。ドッカーン!!やったー!!でもかわされてしまって当たりはしなかったらしい。それで軍隊が発砲してきて、青年一人が射殺される。これで鎮静化してしまった、というふうにいわれています。規模は小さいんですけれど、そういう戦い方をしてダイナマイトが登場するのはスゲエことです。
 面白いのは福岡では盆踊りを禁止しなかったんです。8月20日に盆踊りをやる。そうしたらほんとうに群衆が集まってきた。それも米騒動をやったメンバーが集まるんですから、マジで暴動をやったらしいです。収まりがつかない。で、また警察が出てきて鎮圧される。福岡では、米騒動はけっこうある意味では長く続いたらしいです。その一つの役割をしたのが盆踊りだった。なんとなくそれは、一遍上人の踊り念仏からしても、ちょっとわかるなという気がしています。
それで、全部やられて鎮静化した後に、警察が炭鉱を見回りに来るんですよ。そうしたら、鉱山の一番見えやすいところに落書きがしてあった。その言葉が、ひとこと―「炭鉱夫に頭を下げろ よろしく」―スゲェーと、なかなかたいしたものだと思いました。  ここまで話したのは、山口と福岡であった米騒動で、大杉栄がおもしろいと言っていたものです。

 最初の、アナーキーとかアナキズムの話に戻ることになるんですけれども、盆踊りの初発の地点に、やっぱり自発性とか反権威というものが、ものの見事に出ているんだと思うんですね。要するに、金がなければ生きていけないという世の中になってしまって、それができなければカスだと言われているからこそ、そこに抗う。
 一つは、金がなければ奪う。奪ってでも民衆・人民は「食っていくぞ」ということで行動で、身体で直接示していく。
 もう一つは、もちろん最初は賃上げ要求で、もともとは食える分は自分たちで奪い取っていく行為でもあったので、そういうこともやっていく。だから、ある種ストライキに近いような行動でもあった。
 自分のことは自分でやる。自分・たちのことは自分・たちでやる。やれるんだっていうことの力を示していく。そういう行動としてももちろん読めるし、そこがなければ暴動の意味はないんだと思うんです。
 でもさらに加速しておもしろくなっていくのは、たぶんそこすらも突き抜けていくような行動も起こっているということだと思うんですよ。米とか麦とかを海にぶちまける。ちょっと意味がわからない。でも、やるんですよ。そういう身体の動きを人はやり始める。坑夫たちが家を叩き壊す。それこそ自分たちが支配されているということから解き放たれる、なにものにも縛られない、ということを身体で示していく。なんでそんなことをやっているのかわからない。だけど猛烈にそれをやってしまう、動いてしまう身体の動きみたいなもの。  なんかそういう、人のいままで持っていた固定観念みたいなものを、すべて混乱に陥れるじゃないですけれども、マジで取り乱していくみたいな。なんかそういう、自分自身でも、もともとの自分の意識でも制御できないような力を引き起こしていくというところに、なにか坑夫たちの暴動が持っているアナーキーみたいなものがあらわれる、と言ってもいいんじゃないかと思います。
 それこそ坑夫たちの行動だけじゃなくて、きっとほかのところでも、米を略奪しながら自分たちで食っていくぞ、というふうに動いた。その動いた力のエネルギーの根っこに、人がなにかそこに駆り立てられてしまうアナーキーな力みたいなものがあった、というふうに言ってもいいんじゃないかと思います。

おわりに

最後になりますが、大杉栄で締めたいなと思います。そういうアナーキーな力みたいなものをあらわしているのが、大杉栄の短い文章で、僕の好きな『僕は精神が好きだ』です。それを最後に読ませていただいて終わりにしたいと思います。

 ―僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されるとたいがいはいやになる。理論化という行程のあいだに、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。
 精神そのままの思想は稀れだ。精神そのままの行為はなおさら稀れだ。生まれたままの精神そのものすら稀れだ。
 この意味から僕は文壇諸君のぼんやりとした民本主義や人道主義が好きだ。すくなくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。

 社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々いやになる。
 僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。
 思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ。
『僕は精神が好きだ』 P4~P5
  ご清聴ありがとうございました。

(COMMENTは主催者編集)

SCENE1の終わりにあたって

 今年は米騒動から100年、そして、米騒動以後国家を再び青ざめさせたあの1968年(全共闘運動をサンジカリズムというふうに言う人もいるらしい)から50年でもある。自分・たちはそのように位置付けている。
 しかし、その一方で、国家の側は、今年、明治維新から150年を高らかに謳いたがっている。
 米騒動から100年の民衆運動の闘いの系譜の上に次の100年を据えるのか、それとも、明治維新から上からの近代化、帝国主義化、戦争、植民地支配等を押し進めてきた150年を反省することなく、その延長上に次の100年を平気で置くのか。今まさにそのことが問われている。
 今日は「プロローグ」。今日のことだけで完結しない。気になるところがあれば、SCENE7まで通して、きちんと私・たちのプロジェクトにつきあい、批判してほしい。
 そうやって、この場も、既成秩序からはみ出した「結び合い・繋がり合い」の場になっていければいいし、それが列島社会の今後の100年をつくることに繋がればいいと思う。
 最終回のSCENE7に行き着いたときに、皆さんを、皆さんが思いもよらない〈遠く〉まで連れ出せるのではないかと、少々気負いながら考えている。

風信

「・・・人の『記憶』というものは、出来事『そのものの強度』によって記憶されるかというと、そうではない。
 『記憶』というものは、その出来事がそのあとの時間の経緯のなかで持つことになる出来事の『意味の強度」によって「選択」されていく」

(「もう一つの全共闘・芝浦工業大学全学闘 Blog 2017年12月20日」から)

Oさんのから手紙

 先日は皆様主催の集会に参加させていただきありがとうございました。映像や講師や参加者の方々のご意見など、興味深く聴かせていただきました。この企画のスケジュールを拝見する限りでは私自身の興味とも重なる部分があるものですから、今後も時間の許す限り参加させていただきたいと思っているところです。今日はあの集会の後、私自身少々考えざるを得なかったところがあり、その考えをまとめるためには文章にした方が良いだろうと思い、このような手紙というかたちでお伝えすることで、今後の「会」に対する心づもりも決まってくるだろうという気持ちから書き送ることに致しました。少々長くなりますが、読み飛ばしていただければ幸いです。
 まず最初にお伝えしておかなければならないと思いますが、私自身今まで「米騒動」について何の興味もたず、したがってなんの知識も持っていないことをお伝えします。その上での議論ですので問題の提起じたいがもうすでに誤りかもしれないという疑念も持っております。その上で米騒動とアナキストに関することが1点、「じゃなかしゃば」について1点お伝えしたいと思っていおります。  さて、あの会合の間ずっと啄木の例の「果てしなき議論の後」の一節が浮かんでは消えていました。と申しましても議論をやめて街に出ていこうと思ったわけではありません。プラグマティストでもある私は「お前はここに座っていることで時代とどう関わりをもとうとするのか」という問い掛けが啄木の詩として脳裏に去来していたのだろうと思います。前置きはここまでにしておきます。

1.米騒動とアナキスト(の関わり)

 あの会での栗原さんの話は、米騒動は自然発生的な暴動であり、その暴動が富山を皮切りに日本全国の数カ所で連鎖的に起こった。その暴動は今日から見ればどこかの左翼組織の指令で動いたのではなく、豊かな者から取り貧しきものに与えるというような一定の方向性は見られる。その暴動の過程はアナーキーなものであり、アナキストとしては非常に興味深いものがあり、その一つひとつの中身を見ていくと、特に抗夫達の言行には個人的にも興味が尽きないものがあるということだったと思う。では暴動にアナキストがどれだけ関わっていたのかと思い、手許にあるだけの文献をめくってみた。その結果、大杉豊の日録大杉栄伝(これは官憲の日報から大杉の一日一日の動向をたどっていっている大部の著作)に「大阪の逸見吉三らとともに釜ヶ崎で騒ぎを見物」という記述があるのと、向井孝の「アナキズムとエスペラント」に「山鹿泰治が8月10日と11日に七条(京都)の少数同胞と言われる諸君達と一緒に行動をして、仲間の一人が官憲に引っ張られようとするのを馬乗りになって(羽交い締めだったか)阻止した」という記述が見られるだけだ。他には以下の文献にあたってみたが米騒動に関する記述はなかった。《「日本アナキズム運動史」(小松隆二)、「秋山清著作集」、「松下竜一の久さん伝とルイズ」、「続文学半生記」(江口渙)「パンとペン」「寒村自伝」「宮嶋資夫の伝記」「石川三四郎の自叙伝・書簡集」「大杉栄の著作」「一無政府主義者の回想」(近藤憲二)「古田大二郎伝」(根津隆)「大杉栄研究」(大江正道)「高尾平兵衛の伝記」》等をめくってみたが、米騒動との関連は上記の二例以外は全く見られない。米騒動の記述すら見られない。もちろんアナキズム関連の記録は数限りなくあるだろうから断定的なことは言えないが、本人の回想録やアナキスト本人に関する可能なかぎりの文献をあたって書いただろうアナキストの伝記にも出てこないのはどういうわけなのだろう。私の推論だが当時のアナキストは米騒動には一定以上の関心を示さなかったのではないか。もちろん当時のアナキストの主要な者たちは官憲の監視下にあり自由が効かなかったということもあるだろう。当時の大杉は野枝と神近との三角関係(妻も入れると四角関係か)で孤立していただろうが、幸徳亡き後アナキスト達の動向を伝記等で見ても見当たらないということはそう考えられるのではないだろうか。当時の彼らの行動(運動)を見てみれば例えば赤旗事件のような公演会が中止にされたことに憤慨した大杉や寒村達が赤旗で官憲とやり合って引っ張られたり、演説会もらいで過激な発言をし、弁士中止となったときに官憲といざこざを起こし引っ張られるというようなことが彼らの運動といえばいえるようなものでしかなかった。また印刷物を発行すればすぐ出版禁止処分となるような状態でいわば官憲に首根っこをつかまれており、手も足も出せない状況だっただろう。その状況からなんとか巻き返しを図ろうとしていた大杉達にとっても大衆暴動は千載一遇のチャンスだったのではなかったか。吉本隆明のいう「今日、明日の食べるにも、弱ったときしかない」そのことを大杉が分からないはずがないと思う。その機会を見過ごしてしまったと思えてならないのだ。暴動にはそれに見合ったリーダーがいなければならない。リーダーがいなければ参加者はただの暴徒であり、鎮圧されてそれで終わりとなる。人間は思想や理性では動かないからである。そこに情がなければ人間は動かないのだ。私はそこにアナキスト達が関係していけばまた違ったものになっていたのではないかと今回の会を受けてそう思い至った。大杉達は最適任だったのだから。
 ついでに書いておくが、栗原さんは、抗夫のいう「たたっ殺すぞ」の叫びに大変興味をもたれているようだが、こんな言葉は、私の生まれた四国の山中でもごく普通の言葉だった。私たちの言葉は「もう一回いうてみいー、(言ってみろ)ぶち殺すぞおまえ」だった。この言葉は、小学生間から夫婦げんかまであらゆる喧嘩の場面で使われた。私も親父に言われて台所から包丁を取り出したこともあるし、逆に「やってみいー、こら」と言って親父から反対に首を絞められたこともある。汽車の中で喧嘩になって刺し殺したなどということも珍しいことではなかった。私の家は靴屋だったが、今日のもうけのみに一喜一憂している大衆の家などはそんなものだ。親父は私によく言ったものだ。「わしらは最低じゃけんのー」(俺達は底辺にいるということを父なりの言葉で表現していたのだろう)。このような経験からすると「たたっ殺すぞ」が私にとって興味深いものでも何でもなく、今ではめったに使われなくなった言葉ではあるが我々の中に生き残っている言葉なのだ。その証拠に夫婦ゲンカの時などに出てきそうになるのであわてて我に立ち返るということが何度もあったのだ。この言葉を吐いたら最後、間違いなく夫婦別れとなっているだろう。今はそういう時代なのだ。

2.「じゃなかしゃば」について

この言葉は私に懐かしさをもたらせて止まない。浜元二徳さんが言い出されたことは知らなかった。二徳さんといえば思い出がある。私が水俣に行って最初に水俣病についてまとまった話を聴かせていただいたのが、二徳さんだった。その時どんな話をされたのかはもう思い出せないが、最後に言われた言葉は、あの一度会えば決して忘れることのできない風貌とともに覚えている。「どげん話ばしても、あんたたちには分かってもらえんじゃろうが」といって話をしめくくられたのだ。その時は体調を崩しておられ明水園に入院されていた。今でもこの言葉をかみしめている。二徳さんは哲学者のような趣があり、私たちが話をするときも常に「俺に聞く前にお前はどう考えるのかが大切なんだ」といわれているような気がして、話の前にはちょっと襟を正さなければ失礼だというように感じさせられるちょっと(いや相当)怖い方だった。川本さんは「分からんば分かるところまででよか。お前にやる気があるならとにかくやってみなっせ」という感じの人だったので、私だけかもしれないが川本さんに怖さは感じなかった。
 さて「じゃなかしゃば」とは石牟礼道子さんの「もうひとつのこの世」が下敷きになっているのだろうと思う。この言葉はオルタナティブをも包含しながらも簡単な言葉では表現できない言い回しを含んだ言葉なのだ。それは川本さんが東京のチッソ本社に自主交渉のために乗り込んだときにチッソの社長に向かって「おるば鬼か」と嗚咽し、二徳さんのお姉さんのフミヨさんが「おるば女を捨ててきたとぞ」と叫ぶ。本来なら普通の村民として生きていたであろう人が鬼にならざるをえない世界がもうひとつのこの世であったのだと思う。しかし鬼の世界から出発して鬼の世界に還っていくのであれば悲しすぎるのではないか。かといって都市民が憧れる前近代的な村落共同体に還るわけにはゆかない。自分たちはそのなかで徹底して差別され排除され続けてきたのであるから。裁判が一応終了し、かつて鬼ともなった人たちが還るべき場所は「もうひとつのこの世」以外にはないではないか。そのようなものとして水俣病センター相思社が設立されたのだった。ただこのセンターは運動体としての機能が重視されすぎたせいなのか、今でも日常の生活に戻っていた生活民にとっては敷居が高くなってしまったのかもしれない。漁をし、畑を耕し、簡単な家くらいは自分で建ててしまう生活者には生活者としての生き方があり、今は運動が生活の中心になる生活とは違っているのである。とりあえずは賠償金で家も建て、明日の食べ物の心配も一応はしなくてもよくなった代償としてすることなすこと張り合いがなくなってしまった。と同時に自信さえも失ったように見える。彼らに生活者としての誇りを取り戻してもらうためにも「もうひとつのこの世」を再び創りだすことができないだろうかと考えた当時の相思社の世話人の柳田耕一氏が相思社とは別に「水俣生活学校」を創ったのだった。ここでは「チッソ型社会」(チッソに代表される近現代工業化社会)とは違った社会。つまり「チッソ型社会」に対峙するものとしての「反チッソ型社会」を創り出すという壮大なロマンが生きていた。水俣病支援センターを母体としながら支援活動をやりたければやればいいが支援活動のみに限定されるわけではなく、畑、田、漁、校舎づくりとやりたいことをやる。また学習会や映画上映会などで石牟礼さんや土本典昭さん、原田先生、渡辺京二さんなど水俣につながる人たちがたくさん講師としてきてくれたが、参加するもしないも個人の自由という今考えれば何ともったいないことと思うが、その私にしても出たり出なかったりだった。また規則は何もなく前の日のミーティングで提案して全員が納得すれば実行されるようになっていた。多数決を取らなかったので議論が延々と続くのが常だった。例えば牛を飼いたいといったやつがいた。当然餌をどうするのか、牛小屋をどうするのかいくらかかるのかという議論になる。反対するやつもいるが賛成する者もいるのである。提案者は学校の仕事に迷惑はかけないからやりたいという話になる。すると賛成者は我々も手伝うからやろうとなる。最後には我々も手伝うよということで牛小屋づくりが始まる。もうこの頃にはちょっとした小屋ぐらいは自分たちで作れるようになっていたのだ。川本さんの監督の下、自分たちの宿舎とは別棟の6~7人ほどは寝られるバラックも建てていたのだ。素人が取り組むときに最も難しいのが基礎の取り方だということがその時分かった。また足場を組むのもけっこう難しい。でもこれらの作業は専門家の大工さんではなくかつて土方をやっていたこともある川本さんやトンネル掘りで生計を立てていた渡辺さんという未認定の患者さんから学んだのだった。また石割の技術が廃れてしまうので、その技術を持つ患者さんに弟子入りしたいので1~2ヶ月学校の仕事を抜けたいとか、どうしても読みたい本があるので仕事は午前中だけにして欲しい。みんなにタバコを恵んでもらうのがどうしても惨めったらしいので(自分が金を持たないせいで)土方のアルバイトをして金を稼ぎたいなどという提案が出されるのだった。それらの提案に対して参加者は自分のこととして考え、それぞれの答えを出す。そこからが提案者の腕の見せ所となる。学校の仕事というのは自給自足で冷蔵庫のない生活、ついでにいえば学校に行かせない(子どもを)をめざしていたので田が4~5枚、畑もそれくらい、甘夏畑が3カ所くらい、貴重な現金収入源となる援農・援漁と仕事はけっこうあったので2人、3人と抜けられると仕事の割り振りが大変だった。学校に行かせないといえば三人の子連れの女の人がいたがその方の子どもの一番上は小学校一年生に入学の年だったが、その年は学校にやらなかった。下の子達は当然保育などにはいっていない。それもその方の子どもでありながら参加者みんなの子どもでもあるので、三人は我々が育てるとミーティングで全員一致で決まったのでそのようにしたのだ。ミーティングの後は当然のように宴会となる。タバコ銭はなくても(私もその時タバコをやめてしまった)焼酎は患者さんからの差し入れが常に4~5本はあった。こんなわけの分からないことをやっている若造達に対しても患者さん達はちゃんと酒を差し入れてくれたのだ。「あんたどんのやっていることばわけの分からんたい」などと言いながらも。そういうわけで毎日が宴会だった。そうはいってもその運営資金はどうしたのかと言えば、参加者の入学金と称するもの(初年度は23人集まった)と学校祭と称するもの(一口確か10万円だったと思う)、その他にはカンパが主な収入だった。入学金は一人15万円で生活費はなし、学校債は250人くらい買ってもらったと思う。これだけあれば当初は充分だった。だから参加者はどうやって食べていくかを考えることなく好きなことをやり、言いたいことを言うことができていたのだった。石牟礼さんの思い描くところの「もうひとつのこの世」、二徳さんの提唱する「じゃなかしゃば」とは結果的にはかけ離れたものだったとしても、この生活学校の試みはそれらの思いを現実化しようとする施行だったことは間違いない。
 ただこの試みは水俣病の支援と闘争の過程で生み出された鬼子だったのだろう。石牟礼道子さん、原田正純さん、色川大吉さん、土本さん、最首悟さんなど、それ以前からその後の一貫して水俣に関わり続けた人たちが水俣生活学校の創設にも熱心に応じていただき、そのおかげで債権も集まったことは紛れもない事実なのだが、その後彼らが創設時と同じように熱い心で水俣生活学校を見ていたという記録は見た覚えがない。当初の思いとは違った方向に進んで行ったという思いがあったのだろう。おそらく川本さんや二徳さんにしろ、上記の先生方にしろ、水俣で生活する限りは水俣病事件からなんらかのものを学び取って欲しいがお前等は全くそれができていないじゃないかという気持ちを持っておられたのだと思う。今は、私もその通りだと思うし、どうしてこれらの人びとからもっともっといろいろなことを吸収しようとしなかったとかと思うと残念でならないのだが、当時は「あなた方よりむしろ我々の方が学ぶ姿勢においては強いものがある」とみんな思っていた。もちろんその思いに根拠があるものではないが、そう本気で思い込めるくらい私たち参加者も真剣だったのだ。

 川本さんも、土本さんも、原田先生も、そして石牟礼さんも鬼籍に入られてしまった。ここに書き記したことは単なる思い出話にすぎないもので価値あるものではないだろう。だが、水俣病闘争は単なる補償金目当ての裁判闘争ではなかった。一時は、人間でありながら人間であることを許されなかった人たちが還ってきた場所で、彼らとともに学びながら(一方的に彼らから学ぶのではない)、チッソを作りださざるをえないような社会ではない「しゃば」を創り出そうとする現実的な施行があったことを少しでも興味を持ってくれそうなみなさんにお伝えするのも意味がないことではないのではないかと思いペンを取りました。読まされる方は迷惑かもしれませんが、もし最後まで読んでいただけたのでしたら心から感謝いたします。誤字や文章のつながらないところもあると思いますが、読み飛ばしていただければ幸いです。

2018.5.3 H.O

米騒動
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