〈生のサンジカ〉の希求の系譜」の中味に入る前に、「『米騒動』100年プロジェクト」の前回の「シーン2」の振り返りと併せて、今後の「シーン」のテーマについて手短にお話ししたいと思います。「100年プロジェクト」は、「プロローグ」と「エピローグ」を除けば、「シーン2」から「シーン6」までの5つの「テーマ」で構成されています。
水橋―滑川のおっかあたちの叫び」では、富山湾岸沿いの滑川や水橋での『米騒動』を中心に、米の急激な高騰に対して、米屋の店頭で米の廉売を求める集団行動や、米の県外への搬出阻止行動、悪徳米穀商の自宅や店の包囲・打ち壊しに立ち上がった女たちの「叫び」を、歴史の底から聞くことを試みました。
今日の集いの次の「シーン4」の「『米騒動』と朝鮮―異聞「雨の降る品川駅」」では、中野重治の詩「雨の降る品川駅」を一つの糸口として、戦前・戦後の「日朝共同闘争」の模索の軌跡やそこに孕まれている現在的な可能性を探ります。その次の「シーン5」の「修羅の女の長い列」では、日本の近代化の暴力が穿(うが)つ社会の「亀裂」の底に自身も身を置きながら、その「亀裂」の底でうめき、苦闘してきた者たちの傍らに立ち続ける「修羅の女たち」の姿から、私・たちが〈生のサンジカ〉と言っていることをさらに深く捉え返すことを試みます。また、「シーン6」の「富山の女が拓いたもの ―『米騒動』/『富山型デイ』―その〈先〉へ」では、障害者や高齢者、子どもを分け隔てなく受け入れる「富山型デイ」という新しいケアのスタイルが、社会保障・福祉の縮減を補うための地域の「相互扶助」やボランティアの「動員」体制の中で変質していったプロセスを明らかにしながら、現在のケアのシステムのその〈先〉を考え合います。
今日の「シーン3」では、その前の「シーン」で『米騒動』の闘いを〈生のサンジカ〉の「原型」として描き出したことを引き継いで、この100年の民衆運動の歩みの中で人々が〈生のサンジカ〉を求め、創り出そうとしてきた軌跡をたどります。そのことは、同時に、今述べたようなこの後の「シーン」のテーマへの「橋渡し」やそこでの論議のベースとなるものです。
今日の集いと同じ時間帯にこの施設の大ホールで、「越中の男が見た女一揆」と題する「米騒動100年記念フォーラム」が行われています。『米騒動』を「記念」して何をしたいの?とか、男が見た「女一揆」ってどういうこと?などと、いろいろ突っ込みを入れたくなりますが、これまで「『米騒動』100年プロジェクト」に参加していた人たちが何人もそこに行っているようです。今日は、「生・労働・運動ネット富山」のメンバーからの「提起」の後、神戸大の原口剛さんからコメントをいただきますが、今日この場に参加された皆さんの熱意と意欲に感謝して、活発な論議にしていきたいと思います。
前回の「シーン2」では、『米騒動』は、飢えに苦しむ我が子のために女性たちが立ち上がって米の廉売を哀願する秩序だった行動であって暴動などではなかったという「郷土愛」的な語り口への批判とともに、富山湾岸沿いの米の積み出し港の水橋や滑川での『米騒動』の激しい闘いの様子について、現地の過去と現在の写真や画像を交えながら、報告がありました。また、「シーン1」の栗原康さんの話で、山口や福岡の炭鉱での賃上げ闘争と一体化して展開された炭鉱労働者の街頭暴動について語られていましたが、そのように、『米騒動』は、民衆の集団的な「極窮権」の発動として、日本史上最大の民衆騒動となって日本各地で繰り広げられました。
この「シーン3」では、そうした論議を受けて、『米騒動』後の100年の民衆運動を通して、『米騒動』の闘いを引き継いだのは、どのような人々であったのか、また、そうした人々が「生の困難」の中で既成の支配秩序の枠からあえて離脱・逸脱して、「このようではない〈生〉を生きたい!」という欲求をどのように生きようとしてきたかを時代ごとにたどりなおすことで、民衆運動の歩みの底に響く『米騒動』の「エコー」とでも言うべきものを捉え直したいと思います。
「『米騒動』100年プロジェクト」では、闘う者同士の水平的・解放的な関係性と目指す世界像(「じゃなかしゃば」)とが不可分であるような「生の構成」のあり方を〈生のサンジカ〉と呼んでいます。この100年の民衆運動の中のそうした〈生のサンジカ〉の希求・創出の軌跡の中で、民衆の経験として蓄積されてきたものを改めて捉えなおすことが、現在のこの国の運動の現状を打破して、私・たちが新たなステージへと向かうための大きな手がかりになるのではないか、と考えています。
今日の「シーン3」の「提起」の進め方ですが、最初、映像を通して『米騒動』後の民衆運動の中の〈生のサンジカ〉の希求・創出の軌跡をたどりなおします。その後で、『米騒動』後の民衆の経験史にとって大きな意味をもつ出来事で、その映像では触れていない闘いについて、改めていくつか補足します。その上で、そのように〈生のサンジカ〉の希求・創出の軌跡をたどりなおすことの〈先〉へと私・たちはいかに向かうかを考え合いたい、と思います。
はじめに
こんにちは、原口剛です。今日は、声をかけていただいてありがとうございます。今日の私の話をどう進めていくかという「ストーリー」のようなものを事前に考えてはきたのですが、下手に「起承転結」のある話をするのは、先ほどの「提起」にそぐわないように思います。その「提起」を聞いていろいろと頭の片隅にあったことが引き出されましたので、皆さんのお手元の私の話のメモに書いたことのポイントは話そうと思いますが、むしろ、そこから引き出されたことを中心にコメントをしていきますが、それでいいですか。(参加者から拍手)
話の順番は特に考えていないので、行きつ戻りつ話すことになりますが、よろしくお願いします。
※(原口さんの当日のメモは、このコメントの一番下に2枚の画像となっています。)
民衆闘争の「暦」をつくる
まず、「『米騒動』100年プロジェクト」のことを知ったきっかけからお話ししたいと思いますが、2016年10月に東京の山谷で、右翼暴力団によって非業の死を遂げた「寄せ場」運動の活動家の山岡強一さんをめぐる「山岡強一虐殺30年 山さん、プレセンテ!」という集会がありました。今日の主催者の「生・労働・運動ネット富山」の人たちとそこで出会ってじっくりと話しましたが、そのときに初めて、この「100年プロジェクト」についてお聞きしました。そのときにいろいろなことを話しましたが、とくに話が盛り上がったのは、今日の私のメモで言うと、「3.100年の民衆騒動・民衆闘争をめぐって」の「想起すること
ジェントリフィケーションは社会史のぬりかえをともなう」と書いたことに関わることでした。
私は、実は「ジェントリフィケーション」とは何かということを研究活動のなかで考えてきたわけですが、「ジェントリフィケーション」(gentrification)というのは、都市の中心部の貧困な人々が多く住む地域が、「再開発」や不動産投資によって富裕層のための高級住宅街や観光客目当ての「オシャレ」な商業地域に造り替えられるという現象です。そのことによって、それまでそこに暮らしていた人々が立ち退きを迫られたり、その地域の家賃の相場が上がって、多くの人々がそれまでの住居を失うということが起きています。その際に、地域の過去の出来事をただ抹消するというのではなく、必ずその「置き換え」や「塗り替え」、「脱政治化」などを伴うということがあるのではないか、という話をしていました。
そのときの話をもうひとつ言うと、富山の人たちと話しているときにはっと気づかされたことですが、「東京オリンピック」の開催が決定してから、やたら「2020」という数字を繰り返し見せられていますが、それに私たちの感覚が縛られていて、「東京オリンピック」の開催に反対する側もそのことに囚われる危険性があるように思います。つまり、2020年の「東京オリンピック」反対ということを繰り返している内に、それが自分たち自身にとってのスケジュールになってしまって、反対運動の側の意識が支配の側が設定した「暦」に束縛されることになりかねない。2025年にまた大阪で万博を開催しようという動きもありますが、そのように、「2020年」や「2025年」といった国家や資本が設定する「暦」ではなく、そうではない時間を生きることに向けて、私たちは民衆闘争の「暦」を創っていく必要があるだろうということを、どちらからともなく話していました。
そうした意識に立って自分たちの足場として何をすえるのかということで言えば、例えば、今年は1918年の『米騒動』から100年ですが、そのように、「~から何年」という発想は、そうした民衆闘争の「暦」をつくる上で、足場になるのではないか。今年は、『米騒動』100年であると同時に〈68〉年から50年ですし、釜ヶ崎での最後の暴動の「2008年暴動」から10年ということになります。釜ヶ崎や山谷では、50年前には毎年のように暴動が起きていたので、この後、毎年、「山谷第~次暴動50年」、「釜ヶ崎第~次暴動50年」ができます。(笑い)そのように、資本や国家の「暦」ではないところで自分たちの時間を区切ったり、創り出したりするということが大事だといったことを話していたのですが、そのように集団的な時間のリズムをいかに設定するかということが大事なポイントではないか、と思います。この場も、そのような「暦」を創る「共同作業場」というイメージをもっています。
暴動をめぐる「語り口」を問う
「社会史のぬりかえ」ということを暴動や蜂起に即して言うと、実際にそうした記憶が塗り替えられるということが、いろんな場所でいろんなバリエーションで起きています。例えば、釜ヶ崎について言えば、「2008年暴動」のことはまずそこでは言及されないし、たった10年前のことなのにそれがあったこと自体が語られないという状態です。「2008年暴動」を語ることは、今、釜ヶ崎が向かおうとしている「観光地化」ということに対してまともにぶつかってしまうことになるし、誰かの利益につながる話ではないので、多くの人から避けられます。実は、そこでの暴動について語ること自体が、ジェントリフィケーションに対抗するという意味合いがあるのですが。
また、「社会史のぬりかえ」ということでもうひとつ言うと、暴動について語る際に、暴動とは本来、どのようなものであるかという議論にしばしば陥ってしまいます。釜ヶ崎の「2008年暴動」に対しても、それを相対化するような言説があって、例えば、「2008年暴動」というのは、釜ヶ崎の70年代の暴動を知らない連中が言っていることで、昔の暴動はもっとすごかったし、2008年の暴動のようなあんなしょぼいものは暴動ではない、と言う人もいるわけです。しかし、YouTubeにも映像があがっているので観ていただければわかるのですが、あれを暴動と言わないわけにはいかない。いずれにしろ、「これに比べたらあんなものは暴動ではない」という言説があります。その一方で、70年代の釜ヶ崎の暴動に対しても、あれは「釜共闘」といった活動家が先導して起こったものだから、60年代の暴動とは違うといった言い方をする人もいます。
そのように、暴動ということがどんどん切り縮められていって、最初の暴動だけが暴動で、後の暴動は全部うさんくさいものにされるということがあります。これは、釜ヶ崎のことだけに限らず、暴動や蜂起について論じるときの「語り」として、そういったことはつきものかもしれないとも思います。暴動や騒動ということ自体が、つかみがたい、謎めいたものなので、それに対していろいろな解釈や「語り口」があるのですが、そこにいろんな「政治」が働いているように思います。
今日の進行の人の話や「提起」の中で、「富山の『米騒動』は暴動ではなく、あくまでも米の廉売の請願を軸にするものだった」という、「郷土史」的・「郷土愛」的な文脈の中に『米騒動』が位置付けられているということをお聞きしました。そのように暴動について語る際に、そこに「政治」が入ってきて、それをどう位置付けるのかということが、現在の政治や運動的な状況をどう考えるかということと強く結びついていて、暴動をどう語るかという「語り」自体が、それを語る人の「立ち位置」と切っても切り離せないように思います。様々な暴動をめぐる「語り口」で、そのようなことがあるのではないか、と思います。
「食」を仲立ちにした共同性の創出を目指す
先ほど、富山の人たちと一昨年の山谷での「山さん、プレセンテ!」の集会で話したことを紹介しましたが、そこでは会場の広場の特設テント内での報告・討論や音楽演奏等と併せて、共同炊事も行われました。そうした共同炊事の場というのは、それ自体が大きな意味をもつものであって、一緒に食事を作って一緒に食べる場を共有するということは、他にはない重要性をもつことのように思います。そこでは時にはシビアな喧嘩も起きますが、「食」を仲立ちにすることで濃密な共同性が生み出されますし、「食」を共有する場をどのように創るかということがある種の「直接民主主義」的な実践の重要な課題にもなっています。
支援の食べ物を供給・共有することを、あるところでは「炊き出し」と言い、他のところでは「共同炊事」と言っています。「共同炊事」という言い方をするのは、どちらかと言えば、東京の方が多いようですね。共同炊事の場は、なるべくみんなで食材を持ち寄って、調理もみんなでやって、みんなで食べるという、水平的な関係性をその場で創ることを目標として掲げていますが、これは、すごく大変なことでもあり、大事なことでもあります。そこをしっかりと考えないと、どうしても「施す側」と「施される側」という関係から抜けられない、というジレンマに陥ってしまいます。
共同炊事や炊き出しの準備をするときには、調理器具の用意や食材の量の調整といったいろんな労働がありますが、そうした準備をそのまま放置して流れに任せてしまうと、炊き出す側と炊き出される側に固定されてしまうので、そこを常に意識的に工夫して、共同性や対等な関係性にもっていくという実践がなされています。これは、一見すごく些細なことに思えるかもしれませんが、「食」を仲立ちとしてどのような共同性を創るかということについて本当に様々な工夫がなされていて、そのための重要な実験が日々、いろんな河川敷や公園で行われていることに、はたと気づかされます。そのような意味で、共同炊事や炊き出しというのは、運動的に重要だと思っています。
交通インフラへの攻撃による怒りの表出
次に、私のメモの「2.1970 80年代の寄せ場の闘争が現代にもつ意味」の「「やられたらやりかせ」+「黙って野たれ死ぬな」」と書いたところに入りたいのですが、その前に、ある出来事を「騒動」と呼ぶか「暴動」と呼ぶかという違いはどこにあるのかということについて考えてみたいと思います。テレビで報道される海外のニュースで、「デモ隊の一部が暴徒化した」というネガティブな表現がしばしば使われますが、しかし、それはとても不思議な言い方で、いったい何が起きたら「暴徒化」したことになるのかよく分かりません。「生煮え」の論議ですが、そのあたりのことをどう考えるかということは、非常に重要なことだと思います。
1961年8月の釜ヶ崎の「第一次暴動」について言うと、そのきっかけは、タクシーにはねられた日雇労働者を現場に来た警察官がそのまま死に到るまで放置したことです。この場合、とても象徴的だと思うのは、人間の生命を奪ったのが自動車という「機械」であり、それが暴動につながったことです。自動車のスピードというのは、馬車のような機械文明以前の交通手段とは比べものにならないものですし、その自動車がアスファルト上を歩いている日雇労働者をはね殺したことが暴動のきっかけになったということ自体が、「人類史」的に大きな意味をもつのではないかと思います。
それともうひとつ言えば、不思議なことに自動車というのは暴動の際によく「餌食」になっていて、釜ヶ崎の暴動でも、車をひっくり返して燃やすということが、しばしばありました。自動車は反動を付けてひっくり返すことができるし、きっと「ひっくり返しがい」や「燃やしがい」があるのだと思いますが。これも「生煮え」な論議で、あくまでもそのような印象を受けるということですが、釜ヶ崎の暴動では、自動車を炎上させるとともに、電車をストップさせるということもよくあって、そのように都市の交通インフラを遮断するということが暴動で怒りを表出することと直結していたように思います。
資本主義の欠陥が露呈する巨大貨物船事故
私は自動車や電車、船舶といった交通インフラに興味があって、私の書いた「叫びの都市」という本(洛北出版・2016年)の中で、60年代末以降の貨物船の「コンテナ化」が港湾労働者から仕事を奪ったことについて触れましたが、その後も、コンテナ貨物船の「巨大化」はどんどん進められていきます。貨物船に20フィート・コンテナ換算でいくつ積めるかという「TEU」(Twenty-foot Equivalent Unit)という単位があって、それが同時に貨物船の大きさを表していますが、「4000TEU」、つまり4千個のコンテナの積載が可能なコンテナ貨物船が初めて作られたのが、80年代のことでした。それがさらに90年代に入ると、パナマ運河の通過が可能な船舶のサイズとされる「6000TEU」を超える巨大なコンテナ貨物船が建造されるようになります。
これは、2008年に三菱重工長崎造船所が建造した「8000TEU」、8千個のコンテナの積載が可能な”MOL COMFORT”というコンテナ貨物船の写真ですが、2013年6月にコンテナ貨物船で最大級の事故を起こしました。その事故の写真がネットにいくつも上がっていますが、とても衝撃的な写真で、コンテナ貨物船が中央で折れ曲がっているのがよく分かります。このコンテナ貨物船は、最後には火災を起こして、コンテナに積んだ商品もろとも沈没しました。
また、この図は、今年1月に東シナ海で石油タンカーが貨物船と衝突して沈没した後、流出した大量の油がいかに海洋を汚染したかを表すものです。その油が奄美にも流れ着いたことが報じられた後、それについての報道は全くありませんが、これも、最大級の船舶事故です。「3/11」の福島原発事故もそうですが、巨大インフラが自己崩壊するといったことが、この間、何度も繰り返されています。
なぜこうした大規模な船舶事故のことを紹介するかということですが、最近学会でも、AI化や「スマートシティ」といった形で資本主義がスマートで洗練されてきたという議論がよくあるのですが、これが現実の世界です。オスプレイもそうですが、欠陥品を次々に作って売りつけた結果、こういう事態になっていて、資本主義とはこのように不合理な欠陥だらけなものであると捉えるべきだと思います。
支配の側の流通ルートをブロックする
コンテナ貨物船が商業ベースで運用されるようになったのは、60年代末の日本・アメリカ間の太平洋航路が最初です。つまり、当時、ベトナム戦争の真っ最中で、アメリカからベトナムへ貨物船で軍需物資を運んで空で帰るのはもったいないということで、日本からの輸出品を積んで帰ったのです。そのように戦場でコンテナ貨物船の実用性が実証されて、それから一気にコンテナ貨物船が普及していくことになったのです。しかし、コンテナ貨物船の導入には、いくつかの障害があって、ひとつには、コンテナ貨物船の定期便の運行をいち早く横浜港で開始しようとしたのですが、それに対する反対運動があって、なかなか実現しなかったようです。そのように、交通のルートを簡単には作らせなかったり、それをブロックしていくということが、民衆運動の歴史の所々にあるように思います。
富山の『米騒動』は、女仲仕たちが米を県外に持ち出すことを実力で阻止することから始まりましたが、そのように民衆がいかに既成の流通のルートをブロックしたり、逆に独自の流通のルートを自分たちで形成したかということが、民衆闘争の歴史やイメージをつくる上で重要だと思います。ちなみに、貨物船の「コンテナ化」に真っ向から反対していたのが、たとえば当時の横浜市であり、もうひとつは港湾労働者の労働組合の「全港湾」でした。
それともうひとつ、貨物船の「コンテナ化」に反対したのが実は山口組で、つまり、彼らにとってうまみのある「シノギ」である人夫出しの仕事がなくなるからです。もちろん、全港湾と山口組が互いに手を組むということはありませんでしたが、こと貨物の「コンテナ化」に対しては、両者の利害が一致していたわけです。というのも「コンテナ化」は、港湾労働者と暴力団の支配や対立の場そのものを丸ごと否定するような、新たな資本の権力だったからです。そのように、山口組に現れているような港湾労働者への直接的な暴力支配から、貨物船の「コンテナ化」のようなシステム化された労働の管理へと変化していったわけですが、資本主義のあり方を捉える際に、こうした交通インフラという視点が重要なような気がします。
全国各地の人たちが観た「釜ヶ崎第1次暴動」の映像
この後、「釜ヶ崎第1次暴動」についての5分ぐらいの映像を見てから、先ほど言ったように、私のメモで「2.1970 80年代の寄せ場の闘争が現代にもつ意味」と書いたことに触れていきたいと思います。これは、「朝日ニュース映像」という映画会社が製作した「荒れ狂った無法地帯」というタイトルのニュース映画ですが、当時の映画館では、本編の映画の前に毎回このようなニュース映画が流れていました。その中に、61年8月に釜ヶ崎で最初に起きた暴動の映像もあるのではないかということで調べてみると、このようなナレーションのついたニュース映像があったのです。
当時、この映像は、全国の映画館で映画の上映があるときに必ずスクリーンに映されましたので、釜ヶ崎の暴動のことが全国中に知られることになりました。この映像のナレーションで、「私たちは、このことに目をそむけるわけにはいきません」と言っていますが、その通りに、その後、国費を投じて「釜ヶ崎対策」が行われ、70年には「あいりん総合センター」が完成しました。
これは、政府が公然と釜ヶ崎を日雇労働の供給地として公認したようなものです。その結果、都市の中にいつでも資本が利用可能な「労働力のプール」が形成されたのです。それでは、なぜ「釜ヶ崎対策」のために政府がしゃしゃり出てきたのかと言うと、1970年の「大阪万博」の開催のために労働力が必要だということで、労働力の「プール」にされたのが釜ヶ崎のドヤ街だったのです。2020年の「東京オリンピック」でも同じようなことが反復されていて、今週のニュースでも、そのために「移民労働力を開放する」という話が出てきています。
「寄せ場」を「寄り場」として奪い返す
「寄せ場」という言葉は、江戸時代の「人足寄場」に由来していますが、それは作業場というよりも、ほぼ現在の刑務所のようなものでした。「寄せ場」という言葉には、労働者を寄せ集めるというニュアンスがありますが、その一方で、日雇労働者の人たちはその同じ場所を「寄り場」とも呼んでいて、寄せ集められたのではなく、自分たちが寄り集まる場だということで、日雇労働者が主体となる場というイメージが一気に強まります。そのように、同じ場所に二重の呼び方があるということが歴史的に重要だと思います。そのことにも現れているように、60年代には資本が日雇労働者を寄せ集める場以上のものではない「寄せ場」という空間が、70年代には日雇労働者が自ら集まる「寄り場」として捉え返されることで、そこを自分たちの空間として奪い返していこうとする動きが展開されていきました。そうした動きの一つが、私のメモの「1.釜共闘・現闘委の画期性と意義(寄せ場から寄り場へ)」にある、72年5月の「鈴木組闘争」です。
鈴木組というのは、一言で言えば、人夫出しを事業とするヤクザです。そういった連中が、劣悪な労働条件に抗議する労働者をリンチするということが、当時の釜ヶ崎では当たり前のようにありました。「鈴木組闘争」では、悪条件の労働現場から「トンコ(脱走)」した日雇労働者を暴行した鈴木建設の暴力手配師と「親分」が、「あいりんセンター」前にやって来て、別の日雇労働者を車で拉致しようとしましたが、その場にいた日雇労働者たちによって阻まれました。逆に、その翌日、木刀などをもって「あいりんセンター」前に殴り込んできた鈴木組一派を日雇労働者がねじ伏せて取り囲み、そこの「親分」に謝罪の土下座をさせたのです。多くの人たちにそのときの話を聞きましたが、「勝てちゃったよ」という感じだったようです。その勢いのままに、釜ヶ崎の「釜共闘」(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)と山谷の「現闘委」(山谷悪質業者追放現場闘争委員会)が連動して結成されました。
「釜共闘」と「現闘委」が結成された後の2年間で、様々な重要な実践が行われましたが、その一つが夏祭りです。72年に釜ヶ崎で初めて日雇労働者の夏祭りを行った三角公園は、元はヤクザが日雇労働者の稼ぎをまきあげる賭場になっていました。それをヤクザから奪い返して、日雇労働者の自律的・自主管理的な空間にしていき、日雇労働者の闘いの成果を象徴するものとして夏祭りを開催することになったのです。
今日の「シーン3」の映像の中にも、釜ヶ崎の夏祭りのやぐらの写真がありましたが、釜ヶ崎の夏祭りでは、そのように三角公園の真ん中にやぐらを建てて、その周りで炭坑節を歌ったり、踊ったりしました。.釜ヶ崎のような「寄せ場」には実際に炭鉱出身者が多いので、きっと炭坑節を踊ることには、他の場所とは異なる重要な意味があったのだと思います。夏祭りのためにやぐらを建てた後、みんな寝静まったころにヤクザがそれを壊しに来るのを必死に阻止するといった攻防が3日間連続で行われましたが、やぐらを守りぬいて、夏祭りを最後まで続けることができました。それは、ある意味で「勝利宣言」のようなものですが、そのようなことを経て夏祭りが定着していったのです。
そのように釜ヶ崎の夏祭りの開催自体がある意味では一つの闘いだったのですが、面白いと思うのは、それが行われるようになったきっかけです。「釜共闘」の結成前のことですが、後にそのメンバーとなる人たちが、日雇いの仕事がなくなる冬の時期に行政に要求を突きつけようとして、集会を開きました。そのときにあまりにも寒くてさすがに集会ができないので、もうやめようというときに、相撲を始めた人たちがいたのです。それをきっかっけに、人が人を呼び、どんどん集まって、臨時の相撲大会になりました。中には「わしが行司をやる」と言って行司をやる人まで出てきて、集会以上に相撲大会が盛り上がりました。その冬の釜ヶ崎では、バスケットボールやバトミントンの大会など、いくつものイベントが行われました。その延長線上で、夏祭りにも相撲大会を行うことになりましたが、相撲大会を行ったことが釜ヶ崎の夏祭りが成功した大きな要因になっています。やはり、日雇労働者にとっては、相撲というものには特別な思い入れがあるのです。
今、釜ヶ崎で行われているイベントにはいろいろなものがありますが、その中でも特に面白いと思ったイベントに、「釜ヶ崎プロレス」があります。残念ながら、ここ3年間は観戦に行けていないのですが、初めて私が「釜ヶ崎プロレス」を見たときには、今まで見たことがないくらい見物人が盛り上がっていました。釜ヶ崎の人たちは、プロレスが大好きなんですが、それは一つには、プロレスでは、「正義と悪」がはっきりと分かれているからです。正義役のいわゆる「ベビーフェイス」のレスラーが分かりやすいくらいにそれにふさわしい格好をしている一方で、悪役の「ヒール」のレスラーは、なんとかデビルという名前が付いていて、仮面をつけたり、黒いコスチュームを着ていたりしていていかにも悪という雰囲気を漂わせているので、見た目で善悪がはっきりと分かるようになっています。
さらに、プロレスの試合のレフリーが、あからさまな不正をするのです。日雇労働者が被害を受けて裁判に訴えても、無視されて、棄却されるのが当たり前のようになっているという、非常に不当な状態がありますが、「釜ヶ崎プロレス」ではそのような現実を見事に再演しています。試合中に絶えず観客から、「レフリー、お前、何を見てるんだ」といったやじや怒声が激しく飛び交って、このレフリーはこの後、本当に無事に帰れるのかと思うくらいにエキサイトした雰囲気になります。そのように、ある種の政治的なメッセージと日雇労働者の身体化された文化とがそこに重なっているわけです。
支配権力との対決の場としての「越冬闘争」
日雇労働者の闘争の中で重要なスローガンがいくつも生み出されていますが、その一つが「やられたら、やりかえせ」というスローガンです。これは、先ほどお話した日雇労働者がヤクザを土下座させた「鈴木組闘争」で、それまでずっと暴力手配師にやられっぱなしだった状態から反撃した闘いから生まれたものです。また、「寄せ場」から「寄り場」をつくりだそうとする際に、冬場の炊き出しを軸にした「越冬闘争」をずっと継続してきたことが重要な意味をもつのですが、そこから生み出されたのが、「黙って野たれ死ぬな」というスローガンです。これは、日雇労働が減る冬場に毎年、たくさんの日雇労働者が路上で命を落とすということが繰り返されてきたことに対する、心からの怒りと悲しみとともに発せられた「叫び」です。
そのように、日雇労働者の闘争の重要なスローガンの一つは「鈴木組闘争」から、もう一つは「越冬闘争」から生み出されたのですが、この二つがあるということが、大事なのではないかと思います。「やられたら、やりかえせ」というのは、「下層労働者」とはいえ、資本が必要とする労働力やたくましい肉体をもつ日雇労働者に向けられたスローガンなのです。しかし、「黙って野たれ死ぬな」というのは、むしろ、すでに資本にむしゃぶり尽くされてしまって使いものにならないので、声すらかからないし、どこにも雇ってもらえずに野たれ死ぬしかないような人たちを前にして発せられたものだという意味で、決定的に違っています。この違いということが重要です。
今日の私のメモの「2.」で「船本洲治の思想と実践」と書きましたが、この船本洲治という人は、先ほど言った「釜共闘」の中心メンバーでしたが、「あいりんセンター」の爆破物の件で冤罪を着せられて「全国指名手配」になったために日雇労働者の闘いから離れざるを得なくなり、最後に、沖縄の嘉手納基地のゲート前でまだ20代の若さで74年6月に「焼身決起」をしました。彼は、闘いの中でたくさんの言葉を残しましたが、「流動的下層労働者」や「労務者」、「弱者」といった言葉に様々な意味を重ね合わせながら、日雇労働者という存在や自分たちの闘いの意義をつかみだそうとするわけです。
私のメモの「2.」の中央に、「流動性こそ、野たれ死に的状況こそ最大限武器に転化しなければならない」という船本の言葉を引用しましたが、そのように、彼は、自分たちに強いられた「流動性」や「野たれ死に的状況」を、逆に支配権力に対する「武器」にしなければならないと言い切るわけです。もう一つ言えば、「2.」の左下に引用した船本の次の言葉は、「越冬闘争」の意義について考える上で非常に重要なものだと思います。
「資本によって労働力商品としての価値を否定された病人、老人、資本の自己増殖の過程で廃人にされたアル中たちを引き受けようとしたこと、否、彼らが参加できる形で共に闘おうとしたこと、そして、敵と対決し、打ち勝つために衣食住総体の労働者階級の問題を解決しようとしたこと、これが越冬闘争の意味である。」
そのように「資本によって労働力商品としての価値を否定された」人びとが闘争の主体になるというのは、今では当たり前のことに感じられるかもしれませんが、その当時の「寄せ場」でこのように言うのは、相当踏み込んだことのように思います。釜ヶ崎や山谷では、ずっと「越冬闘争」が行われていたのですが、なぜかそれに対して運動的な意義を積極的に表現する言葉がなかったのですが、これは、「越冬闘争」そのものが資本との対決の場なんだと言った、最初の文章だと思います。
これは世代的なギャップということかもしれませんが、運動に関わる人たちの間でも、労働現場での闘争の方が「革命的」でラジカルなものであって、その一方で、「テント村」の闘争やスクウォッター(占拠)闘争、共同炊事の実践などがそれよりも下に見られるということがあって、たとえば、「テント村」の闘争についても、「必要だとは思うけれど、あまり燃えないんだよね」といった言葉を耳にしたこともあります。そのように、「労働現場中心主義」が、今でもずっと残り続けています。今日の「シーン3」の「提起」の中で、〈生のサンジカ〉や「生存組合」ということが強く打ち出されていましたが、それは、そうした「労働現場中心主義」的な発想をひっくり返していくことにつながるはずです。
船本洲治は、「越冬闘争」についてそれ以上掘り下げて言うことをしていないので、そこをどう「血肉化」していくかということが、私たちの課題として残り続けています。おそらく、私が考えるところでは、「共同炊事」や「越冬闘争」といった実践を、「食」を仲立ちにした〈生のサンジカ〉として改めていかに捉え直すかということが、問われているように思います。
「暗黒の未来」を「抗い」へと反転させる
今のこの国では、希望を安易に語ることができないくらいに危機的な状況が私たちの目の前にありますが、そのことで逆に、「頑張ろう、ニッポン!」や「絆」といった、やたらと前向きな言葉ばかりが溢れていて、現在の破局的な状態を根本的なところから直視するということが、ほとんどなされていません。このように、危機的な状況をきちんと言説化せずに、社会の根本に関わる部分で「巨大な嘘」を許してしまっていることが大きな制約になって、たとえば、「アベノミクス」といった現政権のいろんな問題含みの政策に対抗することさえ、できなくなっているように思えてなりません。民衆の側の抵抗によってそうした状態を変えていこうとする際に、「今のようではない社会」に向けたある種の対抗的なイメージをもつことは、必要なのかもしれません。ただ、現状ではそれがなにか進歩的な明るいイメージではありえないし、そのようなユートピア的なイメージは破局的な状態から目を背けることにしかつながらないのではないか、とも思います。
この意味でも、「越冬闘争」の言葉が重要だと思うのです。「越冬闘争」について船本が言ったことの背景には、職のない日雇労働者の人たちが春まで生き延びることができるかどうかということ自体が目標になるという、凄惨な現実があります。そうした悲惨な、絶望的状況の中で、それでもなお日雇労働者の連帯と支配権力への敵対を力強く表明する言葉を彼が生み出しえたということが、非常に重要な意味をもつように思います。私のメモの「4.〈生〉のサンジカ/対抗世界」の中で、一部、省略した部分もありますが、船本の次の言葉を引用しました。
「われわれの現在は、暗黒であり、われわれの未来もまた暗黒である。・・・現在若い諸君は、いずれ年老いてゆけば分かるだろう.。われわれの客観的未来が野たれ死に以外にないことが」
そこには、この世界の中で底辺労働者である自分たちの「客観的未来が野たれ死に以外にない」ということを知るべきだという痛切な認識が述べられています。そのように、支配権力が自分たちに「野たれ死に」という「客観的未来」を強いていることへの認識を、支配権力への「抗いの言葉」として逆転させているということが重要なことのように思います。そのことを現在の私たち自身の認識の「出発点」として、いかに組み込むことができるかどうかということがあるのではないか、と思います。
闘いのための「地図」をいかにつくるか
私のメモの「3.100年の民衆騒動・民衆闘争をめぐって」の最後の部分で、「民衆の兵站術」と書きました。「兵站」というのは軍事用語なので抵抗感がある人もいるかと思いますが、むしろ重要なのは、闘争の「戦術」を描こうとする際に、自分たちなりの「地図」をもつということだと思います。
自身が日雇労働者として生きながら、釜ヶ崎での闘いを支援し続けた、戦後日本の底辺労働の「証言者」と呼ぶに相応しい平井正治さんという方がいます。平井さんは、2011年2月に床一杯に集めた資料を積み上げた釜ヶ崎の三畳間のドヤで亡くなりましたが、彼が自分の生涯を語った「無縁声声」という本は、「寄せ場」の問題に関わりや関心をもつ人たちの間でよく知られています。その平井正治さんにインタビューしたことがあるのですが、彼は、戦国時代の武将がどのように他の戦国大名を攻めたかを書いた本を何度も繰り返して読んでいました。つまり、現在は組織が「分裂」していますが、「人夫出し」による日雇労働者の支配の「大本締め」は神戸の山口組なので、そこに乗り込んでいくにはどうしたらよいかということで、戦国時代の戦闘でどのように山の地形を利用したのかといったことを、真剣にその本で研究していたわけです。そのときのインタビューで、地形やルートを具体的に描いていくような作業がいかに重要なのかを彼から知らされました。
そうした作業の際に、ひとつには、どのように自分たちの地図をつくっていくのか、ということがあるのだと思います。「『米騒動』100年プロジェクト」のリーフレットの表に『米騒動』が全国各地にどのように伝播したかを表す地図があります。そのような地図を作成することを「カウンターマッピング」と言うのですが、それは現在、世界中のいろんなところで行われています。そのような対抗的な地図の作成を、どのように集団的に行うかということが重要ではないかと思います。
もうひとつには、何を地図化していくかというときに、そこに何を載せて、どんな情報を共有していくかということがあるでしょう。その際に、電線がどう走っているかとか、また、世界経済的な視点からは、特に石油やガスのパイプラインがどこにどのように敷設されているかといった、インフラのルートが重要です。そのようなインフラのルートをどのように認識して、どこに「突破口」を見つけていくかということが、非常に大事なのではないかと思います。
このことは、おそらく、『米騒動』の伝播や「飛び火」のルートにもつながっているように思いますが、やはり、暴動や騒動が伝播していくルートが必ずあるのです。そこに行き交う流動する身体を想定すれば、そうした身体は何によって、どのように流動していったのかという「問い」が、浮かび上がってくるように思います。
その際に、私が思い起こすのは、かつては電車に乗るときに改札口に切符をハサミで切る駅員がいたのですが、自動改札機が導入されたことで移動が遮断されてしまったことです。それまでは、釜ヶ崎で失業して無一文になっても、とりあえず電車に飛び乗ってどこか別の「寄せ場」に移動すれば、そこでまた生活の場を作ることができるといった移動のルートがありました。しかし、自動改札機でコンピュータ化されて乗客の管理が厳密になっていくほど、そうした「漏れ口」や「抜け道」のようなものがなくなってしまうのです。
そのことはそれで終わってしまう話ではなく、先ほど言った三菱の巨大コンテナ貨物船の沈没事故の例のように、必ず完全ではない部分があるはずで、それをいかに発見していくかという作業が重要なように思います。それができたら、おそらく、『米騒動』のときのような闘争の「飛び火」のルートを再現する可能性を物質的に高めることができるのではないか、ということが私の問題意識としてあります。
地球規模のスケールの「語り口」をもちたい
今、環太平洋造山帯上のグアテマラの富士山と同じ高さのフエゴ火山が噴火していますし、九州の南にある新燃岳も噴火していますが、そういった環太平洋造山帯といったスケールで地球を見る必要があるのだろうと思います。また、ハワイのキラウエア火山も噴火中で、環太平洋をめぐって、プレートが同じ動きをしています。さらに、環太平洋上に地震の震源を地図にマッピングすると、それがぐるっと太平洋をめぐっているわけです。特に、日本列島やフィリピンの周辺は地震や津波が多発しています。これは当たり前と言えば当たり前の話ですが、日本の原発を地図上に並べると、環太平洋造山帯のプレートの狭間に見事に重なるわけです。そのように、「自然地理」的な言説を「社会学」的な言説に転用したり、揺り動かしたりすることが、大事なのではないかと思います。
文学的な言い方になりますが、そうした活火山の噴火や爆発というイメージは、闘争のイメージと重なりあうところがあります。鉄道やコンテナ貨物船の話もしましたが、そうした人工的なものに対置するものとして、環太平洋造山帯のプレートのような地球規模のスケールに立った「語り口」をもちたいと思っています。そのことは、「対抗的」な世界像を自分たちがいかに獲得するかということにも、大きく関わるはずです。
今日は、「生煮え」のことばかり言いましたが、この後の論議では、私の言ったことを自由に批判・補足して、美味しくしてください。長時間、私の話におつきあいいただき、ありがとうございました。