今日の「シーン4」の「『米騒動』と朝鮮 異聞「雨の降る品川駅」」の「報告」を始める前に、これまでの「『米騒動』100年プロジェクト」の論議の流れを改めて大きく振り返ってみたいと思います。
今さら言うまでも無く、富山を「震源地」とする1918年の『米騒動』は、賃労働で得たお金では必要な量を買うことが不可能なほどの米価の高騰に対して、米の廉売を求める直接行動から、街頭での暴動、炭鉱地帯でのストライキといった様々な形を取りながら、数十万人とも数百万人とも言われる人々が参加した日本史上最大の民衆闘争として、全国各地で展開されました。そのように、『米騒動』は、資本や支配権力に「やられっぱなし」のままでいるのではなく、生きる上で不可欠な「糧」である米を実力行動で獲得する経験を通して、当時の民衆が自分たちのもてる力を確信し、自らの尊厳をかけて闘うというあり方を指し示すものでした。
さらに言えば、『米騒動』の闘いは、単に歴史上のひとつの「エピソード」に終わるものではなく、その闘いの記憶や「エコー」が、主にこの列島上の「アンダークラス」と呼ばれる者たちによってその後の民衆運動の中で受け継がれていった、と私・たちは捉えています。そうした民衆運動の系譜や「地下水脈」をたどり直すことを通して、『米騒動』から100年目の現在の私・たちがどこに向かおうとするかを探り合うことを目指して、4月28日の「シーン1・プロローグ」を皮切りに「100年プロジェクト」を進めてきました。
この「100年プロジェクト」では、闘う人々同士の〈結び=合い〉・〈組み=合い〉が、自らが求める「じゃなかしゃば(今のようではない世の中・対抗社会)」に相応しい水平的・解放的なあり方を体現するようなあり方を、〈生のサンジカ〉と呼んでいます。前回の6月9日の「シーン3」では、〈生のサンジカ〉と呼ぶに相応しいような支配秩序に対抗的な人々の新たな結合や「自己組織化」が、『米騒動』後の100年の民衆運動の歩みの中でどのように生み出されてきたのか、をたどり直しました。
戦前の日本は、朝鮮や台湾といった海外の植民地を含む「帝国」としてあったので、1930年前後の時期の日本の運動には、「渡日」・「滞日」朝鮮人と呼ばれるような人たちが大きく関わっていました。また、敗戦直後から「朝鮮戦争」前後にかけての時期の日本の運動は、そうした朝鮮半島の出身者やその子や孫にあたる人々の存在を抜きにしては本来語り得ないものです。私・たちが〈生のサンジカ〉と言うときの人々の〈結び=合い〉・〈組み=合い〉は、当然そうしたエスニシティを異とする人たちも含むものとしてあるはずですが、残念ながら、「シーン3」では、「渡日」・「滞日」「在日」と呼ばれるような人たちの動きも組み込んで、この100年の民衆運動の中の〈生のサンジカ〉の希求・創出の軌跡を描き出すことはできませんでした。今日の「シーン4」では、そのことを少しでも埋めることができれば、と思います。
今日の「シーン4」では、「生・労働・運動ネット 富山」のメンバーが「報告」を行った後、「寄せ場」運動の中で「底辺労働者」の闘いの系譜や戦前の「日朝共同闘争」の継承を目指してきた広島の中山幸雄さんと、京都で「反日デモ」を主催している「コトコトじっくり煮込んだ日帝♪」実行委員の二人のメンバーを迎えてコメントしてもらいます。これまでの「シーン」では不十分だった論点も含めて、ぜひ活発な論議をしていきたいと思います。
前回の「SCENE3」では、『米騒動』からのこの100年にわたって、「すべての〈生〉の無条件の肯定を!」という切実な「声」を上げながら、民衆が求め、生み出してきた〈生のサンジカ〉の軌跡をたどりなおしました。今回の「SCENE4」では、「『米騒動』と朝鮮」というテーマを通して、そうした〈生のサンジカ〉が、朝鮮半島を出自とする人々との関わり合いの中でどのように形作られていったのか、そして、今この列島上に生きている私・たちは、アジアに開かれた列島社会を創りだしていくことに向かって何を考えていくことが大切なのかについて、皆さんとともに考えていきたいと思います。
今日の報告では、最初に「1.」として、1929年に作られた中野重治の「雨の降る品川駅」という詩をもとに、日本と朝鮮のプロレタリアートの関係について触れたいと思います。次の「2.」では、その詩に登場する朝鮮人たちの「渡日」、「滞日・在日」、「追放」への足取りとそれが意味することをめぐって、そして「3.」では、日朝のプロレタリアートがともに日本資本主義に抗して立ち上がった「全協」(日本労働組合全国協議会)による「日朝共同闘争」の「前史」やその「幻想と真実」について、お話ししたいと思います。最後の「4.」では、「日朝共同闘争」が敗戦後どのような経緯をたどったのかについて、さらに、「日朝共同闘争」が置き去りにされたままであることに敢然と「否!」と唱えた二つの取り組みについて、お話ししたいと思います。
今年は『米騒動』から100年目であると同時に、日本の植民地支配からの解放を求める動きが大きく沸き起こった朝鮮の「三・一独立運動」から99年目の年でもあります。大きく見れば、日本民衆と朝鮮民衆との関係は日本国家によって分断されるとともに、日本国家の都合によって朝鮮民衆が囲い込まれ、さらには排除されるという歴史の積み重ねばかりです。しかし、この後見ていくように、日朝労働者の共同闘争という旗を正面から掲げ、国家や資本に対抗しようとした人々の試みが確かにあったのです。
今回の「報告」で、私は、日朝双方の労働者や民衆がどのように関係しあってきたのか、また、関係できずにきたのか、そして、その人々の「関係史」から何を受け止めるべきかを見ていきたいと思います。さらに言えば、こういうことを試みなければ、「『米騒動』から100年」というものを振り返る意味が半減してしまうのではないか、という強い思いにも駆られています。
この間、『米騒動』についていろいろな資料等を見ていく中で、全国各地へと急速に拡大した『米騒動』を鎮圧している様子を報じる新聞記事と同じ紙面に、シベリアへと送り出されていく兵士たちの写真が載っているのに目がとまりました。『米騒動』の鎮圧に駆り出された警官や軍人たちからは殺伐とした雰囲気が発せられているのに、列車の中から手を振る兵士たちには何の屈託も感じられないのです。その新聞記事のことがずっと気になっています。
「シベリア出兵」といいますが、これは日本が第一次世界大戦の終わりがけにロシア革命の成就を妨害するだけでなく、米国などが手を引く中で、大陸侵略の好機とばかりに無理に続けた戦争です。沿海州に移住した朝鮮人パルチザンらの抵抗によってついに撤兵せざるをえなくなった戦争で、いうなれば日本軍の大陸における最初の躓きや負け戦と言っていいものでした。「シベリア出兵」は、米の投機の直接的なきっかけとなって米価の急騰を招くことで、『米騒動』を引き起こすことになりました。そればかりではなく、『米騒動』の後、日本国内の米価の安定のための朝鮮で実施された「産米増殖計画」によって痛めつけられた朝鮮民衆は、さらにその上に「出兵」に伴う負担を負わされることになります。日本帝国は、「シベリア出兵」の躓きを挽回しようといっそう大陸侵略にのめりこみ、その負担は何重にも朝鮮民衆へ押し付けられていきました。
この「シベリア出兵」は、日本帝国主義の膨張が朝鮮民衆に何をもたらしたかという意味で、日本民衆と朝鮮民衆とのそれ以降の関わり方を象徴していく、まさに典型的なできごとです。こうした苦難と負担の朝鮮民衆への押し付けが、朝鮮農民の満洲や間島(カンド)地域への大量移住と、日本への大量渡航という事態を生んでいくのです。
「米騒動」の10年後の1928年という年は、朝鮮からの渡航者が20万人を超えていく年であり、日本帝国がその版図の更なる拡大を図ってより強く国民を統合していくことの象徴として、天皇を国民の眼の前に登場させるための「御大典」の式典が執り行われた年です。このとき、中野重治が「雨の降る品川駅」の詩を詠みます。
昭和天皇への代替わり=「御大典」の後、1990年に現在の天皇への代替わりが行われ、そして来年には次の天皇への代替わりが予定されています。「在日」朝鮮人にとって、もう三度目となる見たくもない式典が続いていくのです。
この「詩」を、「天皇暗殺」にこだわった特殊な「天皇詩」とみる見かたもありますが、それよりも私は、朝鮮プロレタリアートと日本プロレタリアートとが弾圧によって別れを余儀なくされることへの憤りと、それでもなお繋がりを求めてやまない強い想いを、「天皇暗殺」というモチーフに込めて詠った激情の「詩」として受け止めたいと思っています。
歴史家の石母田正が、著書『歴史と民族の発見』の中で、この中野重治の「雨の降る品川駅」の詩に触れて、「『米騒動』と『三・一運動』は相互に遠く切り離された民衆が立ち上がる場合に観られる微妙な対応関係にある」と語っています。それでは、「微妙な対応関係」とは一体どのようなことかということですが、それはいわば、「米騒動」と「三・一独立運動」の間の「と」にあたることではないでしょうか。つまり日本民衆と朝鮮民衆の間の「と」のことです。この「雨の降る品川駅」という詩を手掛かり・手始めとして、その「と」を見つめていきたいと思います。
1 詩「雨の降る品川駅」をめぐって
この「詩」は、その登場の時から特別でした。「詩」が雑誌に最初に掲載された頃に作者の中野重治は、日本共産党に対する弾圧事件(1929年「4・16事件」)に巻き込まれ、逮捕・収監されてしまい、官憲の目から「詩」を守ろうとした掲載誌編集者は、ドサクサの中で肝心な元の原稿を失ってしまったのです。
そのため長い間、この「詩」の元のカタチや伏字の語句をめぐる論争が続きました。その推移に日本人と朝鮮人の関わり合い方の歴史が投影されています。
そして、それらの論争のあおりを受けるようにして、作者は、「詩」を改訂していきました。そのため、この「雨の降る品川駅」という詩はいまだに「決定版」というものがない「詩」なのです。
(1) 「雨の降る品川駅」の4つの詩形
「雨の降る品川駅」には大きく分けて4つの詩形があると言われていますが、本当は朝鮮語訳のものも含め5つあると言えます。以下、「詩」の4つの日本語版の主な特徴や成立の背景について紹介します(「詩」の4つの詩形については「
資料3.」参照)。
A 初出版 雑誌『改造』版 1929年
雑誌掲載にあたって伏字を多用せざるをえませんでした。
B 定稿版 新版『中野重治集』(筑摩書房) 1976年
敗戦後、伏字を取り払った形のもので、幾度か作者によって詩句も書き換えられた末に定稿とされました。最も広く読まれているものです。
C 再訳版 水野直樹 季刊『三千里』 1980年
初出から3か月後に「在日」朝鮮人の機関紙『無産者』に掲載されていた朝鮮語訳の「詩」を水野氏らが「発見」、これを日本語に訳し直しました。この「発見」で最後の伏字部分に天皇暗殺に関わる表現があることが明らかになります。
D 共同研究会訳版 『梨の花通信』 2001年
Cの訳は、朝鮮語を母語にする者が行っていないとして、韓国の研究者・留学生を交えた共同研究会によって再度訳し直したものです
(2) 詩句をめぐる論争について
詩句を巡る論争ですが、その主なものは以下の三点です。始めにその要点を紹介し、その後に私の意見を加えていきたいと思います。
① 「うしろ盾・まえ盾」論争
この「詩」の「決定版」の最後の方に、「日本プロレタリアートの『うしろ盾まえ盾』」という詩句があります。この表現に対して、「なぜ朝鮮プロレタリアートが、日本プロレタリアートの『うしろ盾』や『まえ盾』にならねばならないのか?」という疑問が提示されます。また、作者の中野重治でさえ、差別意識から自由ではなかったのかと嘆く意見までありました。これらの批判に対して、中野重治は反論せず、「『うしろ盾まえ盾』の詩句には『民族エゴイズムのしっぽ』のようなものをひきずっている感じがぬぐい切れません」といった、極めて歯切れの悪いコメントを出すにとどめています。
この「詩」を書いたときに、中野重治は、「日朝プロレタリアートのどちらが『うしろ盾』だろうが『まえ盾』だろうがかまわない、どちらがどうと言う必要もない関係をめざすべきであり、日朝プロレタリアートの関係を表すならその言葉しかない」と思ったのではないでしょうか。実際、この「詩」が掲載された時点でそれが問題になったわけではなく、Bの「定稿版」が敗戦後広く読まれるようになり、日朝民衆の関係も問われていく中で、「うしろ盾まえ盾」という言葉が問題にされるようになったのです。
しかし、それはこの「詩」が負うべき問題でしょうか。中野氏にしても自らが所属した日本共産党と朝鮮総連との関係が疎遠になっていく中で、「前」でも「後ろ」でもいいなどとは、とても言えなくなっていったのではないでしょうか。後に中野氏自身も、共産党を批判して除名処分を受けます。近代を通して、朝鮮プロレタリアートが日本プロレタリアートの「まえ盾」であったのは歴史的な事実であり、否定しようがありません。しかし、確かに、そうした関係を乗り越えようとする一時期が存在し、そのために懸命に奔走した日朝の労働者や表現者たちがいたこともまた一つの事実なのです。そのことを、中野氏は苦い思いでかみしめていたのでしょう。それが、あの歯切れの悪いコメントとして残されたのではないでしょうか。
問題なのは、「詩」を受け止めたそれぞれがどう考えるかです。むしろ「詩」の方から、「詩」を読んだ私・たちが朝鮮民衆とどのような関係を作るのか、今なお迫られ続けているのだと思います。
② 「実行者」は日本人であるべきか
朝鮮語誌『無産者』が見つかり、日本語への再訳が試みられていく中で、「詩」の最終連に「天皇暗殺」の実行をうかがえる場面が描かれていることが知られていきます。それに対して、この暗殺の「実行者」が日本人でないことに否定的な意見が多く出されました。そのときにも、中野氏は、それに同調するかのように、「天皇暗殺の類が考えられるとして、なぜそれを国を奪われた方の朝鮮人の肩に移そうとしたのか」と書いています。
そうした批判に対する私の意見ですが、まず、この「詩」の構成全体からすれば、「天皇暗殺」の実行者を日本人にすることはできないはずです。全く別の詩を創作するしかないでしょう。さらに言えば、この「詩」に登場する日本を追われる朝鮮人たちのみならず、彼等を見送る日本人である「私」もまた、天皇に対して強い殺意を持っているのは明らかです。彼・彼女等朝鮮人と、見送る日本人の「私」の想いは、天皇(制)への強い怒りにおいて通じ合っている。そのことこそ、作者の中野重治が描きたかったことでしょう。それなのになぜ、中野氏は、批判に反論せず、同調するような対応をしたのでしょうか。
これも「うしろ盾・まえ盾」問題と同じで、この間日本プロレタリアートはいったい何をしていたんだという、中野氏自身の悔悟と怒りから生じているのだと思います。「①」の問題と同様、「詩」でも中野氏でもなく、今を生きている私・たちこそが問われているのです。
③ 天皇暗殺という行為をどう受け止めるか
当時のコミンテルンからの「天皇制打倒」という指示を、中野重治がどう受け止めたのか。この「詩」はその反映だという意見もありますが、そのことよりもむしろ、「天皇暗殺」という行為が「詩」の中で本当に実行されたかどうかをめぐって今も論争が続いています。二つの朝鮮語からの再訳版は、暗殺が実行されたかどうかについて異なった解釈を行っていて、Dの「共同研究会訳」の解釈を支持する人々からは、この「詩」は暗殺実行を否定する「平和の詩」である、といった意見まで登場しています。
私は、この「詩」の中で「天皇暗殺」が実行されたかどうかについてはこだわっていません。訳に無理のない方がいいと思うだけです。重要なのは、「天皇暗殺」ということにかける思いの昂ぶりであり、そして、その後の「歓喜」の分かち合いです。朝鮮語版が「発見」されて伏字の内容が明らかになったからこそ、Bの「定稿版」からはすっぽり抜け落ちていた最終連に込められていた作者の気迫がよみがえったのであり、訳の違いを強調しあうことで、逆にその意義が薄れてしまうのでは何にもならないでしょう。
「詩」の朝鮮語版を「発見」した水野直樹氏は、初出『改造』版のすぐ後に「詩」の朝鮮語訳を掲載した『無産者』という「在日」朝鮮人プロレタリアの機関誌のことを、なぜ日本の研究者がかくも長い間「忘却」していたかということにこそ日朝間のありようが露呈しているのではないか、と語っています。最も肝心な「詩」の元のカタチを知ることさえも、朝鮮プロレタリアートの「うしろ盾」によっているのです。
(3) 中野重治はなぜこの「詩」を書いたのか
① 応答詩としての「雨の降る品川駅」
中野氏がこの「詩」を献じた一人である李北満という朝鮮人のプロレタリア文学者が書いた、「追放」という日本から追われる朝鮮人を詠んだ作品があります。作者の中野氏自身が書いていることですが、この「詩」はそれに応答する形で書かれたものです。さらに、この「詩」が書かれた後に、林和という朝鮮人詩人が、「雨傘さす横浜埠頭」という詩を「雨の降る品川駅」の詩に応答する形で発表します。日朝の文学者の間でのこうした作品のやり取りは、他にはほとんどありません。
このことは、三人の間の個人的な交流というより、当時の「朝鮮プロレタリア芸術連盟」(コップ)と「日本プロレタリア芸術連盟」(カップ)を代表する作家同志の真剣な応酬といえるものです。自分たちが応答しあうことで、日本プロレタリアートと朝鮮プロレタリアートとの関係を何としても変えていきたい、という強い使命感がそれぞれにあったのだと思います。
だからこそ、作者の中野重治は、強い気迫でこの「詩」に臨んだと思うし、「天皇暗殺」という、朝鮮プロレタリアートからすれば極めて切実な、そして日本プロレタリアートからすれば大胆かつ危険極まりないテーマに挑んだのではないか、と思えるのです。「日本プロレタリアートと朝鮮プロレタリアート」というときの、その「と」を描くときに選んだのが、あるいは、選ぶまでもなく浮上したのが、「天皇暗殺」というテーマだったのではないでしょうか。
② 「日朝共同闘争」への夢と現実を抱えて
この「詩」が詠まれたのとほぼ同時期に、「日本労働組合全国協議会(全協)」が結成されます。「全協」は、「日本労働総同盟(総同盟)」系の労働組合の方針に反発し、日本共産党の指導の下、日朝プロレタリアートの共同闘争を中心課題に掲げて旗揚げします。この後で詳しく触れますが、「日朝共同闘争」とはいえ、「全協」労働運動でのその実情は、「在日」朝鮮人労働者の活躍に多くを期待せざるをえず、共産党とともに、結成早々から当局の厳しい弾圧を受けて、その活動時期も1934年ごろまでのごく限られた期間に留まるものでした。「詩」が描く朝鮮人たちの国外追放もそれにかかわるものです。
「詩」が詠まれたその時も、「日朝共同闘争」は切実に求められるものであると同時に、日本人側の差別と無関心、そして官憲の弾圧との苦闘を余儀なくされる、厳しい現状の中に置かれていました。そういったぎりぎりの中での表現が、「詩」として結実したのだと思います。
③ 日本と朝鮮 民衆間の「と」を問い続ける
最初に、この「詩」をめぐるいくつかの論争や批判について話しましたが、それらの論争や批判は、私・たちに今も跳ね返ってくるものばかりです。作者が意図したわけではないでしょうが、日朝プロレタリアートの交情を強く求めたこの「詩」は、敗戦後からの「詩形」論議や作者による幾度もの改稿、朝鮮語訳からの再訳といったその時々に、さまざまな角度から、日本と朝鮮民衆の間の関わりのあり方に「問い」を発し続けてきたのだと思うのです。その「問い」は今も、そしてこれからも発し続けられていくでしょう。
この「詩」に決定稿がないように、作者が求めた「と」のカタチにもまた定まった「答え」などないのです。