SCENE 2  ニューズレター

2018年6月

 
2018年5月12日、SCENE2を開催した。SCENE1に続き県内外から30名が集まり、議論がなされた。
 はじめに主催者側が、本プロジェクトの趣旨とSCENE2の位置付けについて簡単に触れた。
 次に、プロローグでも披露したSCENE2に関する動画を上映し、滑川に住む「生・労働・運動ネット」のメンバーが、作成した「THE SHOUTS」のプレゼンテーション画像を見せながら、提起を行った。
 休憩をはさんで提起についての補足があり、最後に参加者同士のフリートークがあった。
 フリートークでは活発な意見交換がなされたが、大きく括れば、「民衆の集団的記憶」を軸に話し合いが展開されたと言える。直接子や孫に伝わる記憶とは別に、民衆レベルで記憶されるものがある。
  1. 米騒動が「富山の女一揆」として伝わることで、都市下層民が自分たちのふるさとの記憶を揺さぶられ共鳴したのではないか。
  2. 運動で高揚し自己を解放したという経験は、個々人に刻まれるし、民衆レベルで集団的記憶としても刻まれる。
  3. 「2025年問題」で厚労省が警戒する「高齢者」とは、〈68年〉に暴れた学生たちの世代である。彼ら/彼女らに「あの頃を忘れたのか、今暴れろよ」と言いたい。古典的な労働運動が破綻した今、「高齢者」の闘いの現場は自らの足元にこそある。大人しくケアを受ける側に押し込めようとする資本/国家に鋭く対峙せよ。それが記憶を封じ込めないで闘いとして継承するということではないか
    …熱い議論であった。
 
   以下、当日のSCENE2での提起とその補足を中心に報告する。
ニューズレター SCENE2 pdf版
はじめに
『「米騒動」100年プロジェクト』の趣旨
 今年、日本近代史上最大の民衆騒動である「米騒動」から100年の節目を迎えた。この100年、どのようにその「記憶」は、「民衆史的記憶」として蓄積されてきたのか。その蓄積から、今を生きる私・たちは何を引き出すことができるのだろうか。
 日本近代150年の歴史のなかに、拮抗しながらも埋もれさせられてきた、この列島民衆の100年にわたる「結び合い・繋がり合う」経験の歴史―その鉱脈を探ることをこの「プロジェクト」を通して試みていきたい。
 民衆同士の「結び合い・繋がり合う」力が、どのように民衆自身のなかで見出され、見直されていったのかということが大切なのではないか。「米騒動」当時も、その後も、そして今も、人々を未来へと促すのは、決して利害に服従せず、なによりも自由に、人と人とが水平的・横断的に組み合うことを求めあうとどめようもない「熱い叫び」ではないか。
 私・たちはこれからの100年に向けて「結び合い・繋がり合う」力を創りだしていくことを目指し、そのためのいくつもの手掛かりを、「プロジェクト」を通して一緒に見出していきたいと思う。それこそが、この「プロジェクト」の目標にすべきことと考えている。
 どうか、私・たちの試みを共有していただき、ともに「明治150年」に抗する「米騒動100年」を立ち上がらせていきましょう。

SCENE2について
 前回のプロローグは序章であり、全体像を予告的に提示した。今回からは、いわば本編に入る。今日のSCENE2は、団体戦でいうところの「先鋒」にあたる。  滑川―水橋の「米騒動」について触れるが、私・たちは郷土史家でも研究者でもない。試みたいのは小さな「史実」をめぐる論争ではなく、「米騒動」の女たちの大きな「叫び」を「聞き返す」こと  その「叫び」から、まぎれもなく『「米騒動」100年』が始まるのである。

SCENE2 動画

 

(1) メンバーによるプレゼンテーション

プレゼンテーション
パワーポイントのファイルをpdfファイルに変換している。
pdfを閲覧してください。

(2) プレゼンテーション補足

1、「米騒動」とは何か?
定型化された交渉のルートをもたず、交渉団体として認められていなくても、無権利状態の者たちが集まって、生(生殖、生命、生存、生活、生産)を脅かす者に対して、「全ての人の生の無条件の肯定」を、具体的・直接的に突き出し、認めさせていく民衆の行動→100年前の貧困層は「生」の諸シーンが近接しており、「米」が文字通り明日への糧であった→つまりそれは「極窮権」の行使であった。
(1) 水橋―滑川のおっかあ達の「叫び」の中に、闘いの本質が宿る
  1. 「おらたちみんなが一味やぞう」
    指導者はいない。極めて水平的な関係である。あんたも貧しいし私も貧しい。恥じることない。同じ境遇であり、警察権力には団結して抵抗するぞ。
  2. 「ただでくれとは言うとらん。買える値で売ってくれと言っとるだけだ」
    施しを受けたいわけではない。自分の生は、自分で仕切る。市場原理だろうがなんだろうが、自分たちの生を阻むことはできない。生きるためには何をやっても許されるはず。道理はこちらにある。(=モラルエコノミー)
  3. 「おっかちゃん、でられんか、でられんか」
    もう黙ってられない。持たざる者たちであっても、数に頼んで押しかけて、直接団体交渉をして訴えよう。引っ込んでいても、誰かが代弁してくれるわけではない。動かなければ、政治が自分たちの要求を汲み取ることはない。
(2) その「叫び」に応ずる準備は、列島各地で十分できていた
  1. 故郷で食いっぱぐれ、大都市に吹きだまる貧民層→雑業では食っていけない
  2. 造船や港湾で働く未組織「労働者」=労災で毎日平均100人死傷(神戸の三菱造船)、11時間労働など、過酷で劣悪な労働環境→労働争議急増→未成の労使交渉→街頭へ
  3. 被差別部落民を狙う罠→米の廉売に応じておきながら後で「強盗罪」にかける→さらに悪意のデマを流す→さらなる差別・抑圧→異常に高い検挙率
  4. 納屋制度に縛られていた坑夫たちは賃上げと米の廉売とを同時に要求していた→「坑夫らは、米騒動ではなく、労働争議として当局に対応させたかったのではないか。」(林えいだい)→街頭へ出るときは腹をくくっていた
(3) 労使交渉が労働現場でできない職工たちと都市雑民層、被差別者とが、「街頭」で出会い、結びつき、騒動が爆発的に拡大
  1. 富山のおっかたちが、無権利状態のまま、廉売を求め、詰め寄り、食い下がり、要求を通したという事実が背中を押す→「俺たちも、がまんできねえ。やっちまえ」→交渉相手などだれも買って出ない見捨てられた最下層の者たちが、身一つで集まり、集団的な直接行動を起こす。
  2. 行動全体を指揮する指導者はいない。街頭で出会った者たちが、極めて水平的な関係で横に繋がり、集団で直接行動を起こした→彼ら彼女らが望んだのは、全ての生が無条件で肯定される、上下のない自由に水平に繋がることができる社会の実現ではなかったか。
2、その後どうなったか  国家の対策と騒動の主体の分裂
米騒動ほど大規模な暴動・騒動はその後なくなった。なぜか。
(1)国家が資本主義社会の階級対立を認め、調停機能としての「社会政策」に力を入れ出した
  1.  1918年が最大にして最後の米騒動になったわけ→資本主義の拡大により、国家権力をもってしても民衆の生が国民国家の枠内に収まりきらなくなった。(例えば1910年の幸徳秋水ら社会主義者を弾圧した大逆事件のような抑圧一辺倒では、たち行かなくなった。)つまり「資本主義社会」が、「労―資」間、及び「労・資―アンダークラス」間の階級対立を含みながら形成されること、対立というものが、国民国家の枠からはみ出して今や資本主義の成り立ち方からして必然的にあることを認めざるを得なくなった。
  2.  「米騒動」を経験した国家は、階級対立の激化による体制転覆の危機を感じた→その直接性の威力を削ぐために社会的なものを準備する→「社会政策」が立てられる。
  3.  1918年9月に寺内内閣が倒れ原内閣が成立すると、内務大臣床次竹二郎は、翌1919年11月、ヤクザを束ねて右翼団体・大日本国粋会の結成に世話役として関わる。同時に、内務省内に社会局を新設して生活保護や失業対策を管轄させ、後に労働問題も取り扱うようにさせるなど、いわゆる「社会政策」に取り組む。
  4.  ストライキについては、原則的に干渉しない姿勢をとり、同年12月には、半官半民で「協調会」を設立し、階級対立へのソフトな介入を図る→ワーキングクラス対策としては「労―資」間の調停という「社会政策」を、アンダークラス対策としては、表では方面委員制度を作り世話をしているように見せかけ、裏ではヤクザをテコ入れして右翼団体として再編し身を持ち崩した者を国家の末端に再吸収する→これらを同時に行う
  5.  つまり、都市雑民層を「近代的工業労働者」と産業予備軍としてのアンダークラスという二つのクラスに分断し統治する→国家が怖いのは国家の枠を超えて社会主義が持ち込まれる「インターナショナル」であり、アンダークラスを右翼団体の力で繋ぎ止めておく必要があった。
  6.  しかし1938年、国家は国家総動員法に重ねて「社会政策」を廃棄し「日本的厚生」を唱える=労働政策以外は社会事業として区別し縮小する→「社会政策」は階級対立を前提としているが、「今は対立を超えて「国民的」なものに根ざさねばならない」という「理由」→国家権力による「社会」の再廃棄→アジア太平洋戦争後も「厚生」省という表記として残り、この国の「社会」という言葉の含意の狭さは今日まで続いている→日本国憲法下の今日でも「生存権」の認識の弱さ
 
(2)騒動の直後、主体は分裂した
  1.  騒動直後には、一方で、階級対立を前提に「社会政策」が立てられ、調停機能を持つ「社会的なもの」が制度化・定型化されていく→労働組合、農民組合、…アナボル論争を経て、さらに、ボルシェビズムの影響下での労働生産現場での組織化が進む→後にソ連邦の解体、新自由主義の台頭により、既成労組の力は弱まる。
  2.  他方で、「社会的なもの」の制度から離脱、脱落した者たち、予め排除された者たちの「極窮権」を行使する闘いの系譜は、列島の地下水脈が、時折間欠泉のように爆発しながら、今日まで続いている。
3、 米騒動を論じる者―それぞれの取り上げ方
米騒動を論じる者たちの間には、歴史観、社会観の隔たりがあり、スタンスが違う。  
(1) 当時の「進歩的知識人」のアングル― 「与謝野晶子」の例
  1.  当時の知識人・ジャーナリストは、「あのような直接行動を2度と起こさせないためにも」と米騒動を否定的に捉え、倒閣や普通選挙運動に結びつけようとした。→モラルエコノミーからくる直接行動を、「議会制度へのアクセス権の要求」へと自分たちの問題意識に引きつけて翻訳/代弁していった。→しかし、今の国会、地方議会は民衆の欲求を汲み上げ実現させているか、そのような機関たり得ているか→議会制=「間接性」の限界にぶつかっていると言ってもいい今、注目すべきは、むしろ米騒動で民衆が動いたその「直接性」の方ではなかったのか。
  2.  与謝野晶子の「食糧騒動について(雑誌「太陽」9月号掲載)」に見られる「翻訳」のしかた→制度の枠外に置かれた者たちの直接的な動きを恥ずべきこととして評価せず、今後再び秩序を混乱させる直接行動が起こらぬように、内閣の刷新や普通選挙制度の導入など、既成の政治制度の充実を求める→この年、彼女ら「知識人」の呼びかけで、富山に全国から一番多く寄付が集まったという。
(2) 県内でも際立つ違い
  1.  「米蔵の会」や魚津市民―「魚津の場合は、主婦達の穏健な哀願行動であった。貧民救助規定を独自に持ち、救済米の廉売や救済金の寄付で貧民の願いを叶えてやる助け合いの風習が昔からあった。「騒動」はなかった」という主張→WE LOVE UOZU. →「魚津発」だけを強調したい
  2.  「北日本新聞」―現代の諸制度を、その背景にある歴史的なカテゴリーを通さずに、米騒動と強引に結び付け、「せっかく獲得した諸制度の劣化や空洞化」を嘆いてみせる。
  3.  向井嘉之氏・金沢敏子氏―井上紅花、横山源之助、細川嘉六等、郷土のマスコミやジャーナリストの業績を称えたい郷土ジャーナリスト
  4.  井本三夫氏―魚津の人々とは距離を置き、前年からの労働争議の急増と女陸仲仕も労働者であることから、「米騒動を街頭騒擾だけで見ずに、17年から20年春までの米価高騰期の賃上げ騒擾や居住消費者運動と加えた総体として見るべき」と米騒動を再・再「発見」した→その見方は否定しないが、18年8月の街頭は列島全土で揺れていたのは事実では→再「発見」好き過ぎやしないか?
 
 1959年に刊行された井上清・渡部徹『米騒動の研究』(全5巻)に基づくこれまでの定説(当時の新聞や警察、行政資料など、文献を本にした研究であった)を、富山県内の動きについては、オーラルヒストリー的手法で覆してきた。魚津よりも東水橋が早かったとか、どのような生活をしていて、どのような思いで騒動を起こしたのかということを、2000年代に入ってから丁寧にまとめ、実証してきた功績は大きいのだが。(井本氏については、ウィキペディア「米騒動」を参照)
 
…しかし、これらと私・たちは、歴史観、社会観において大きな認識の隔たりがある。私・たちは、米騒動からの100年を踏まえ、これからの100年に向けて次の一歩を踏み出すために、米騒動を取り上げるのだ。
4、 私・たちは何がしたいのか
 
(1) 米騒動を受け継いだ者たちとは
  1.  「米騒動」とは、自分たちの生を脅かす者に対して、無権利状態の者たちが集まって、交渉団体として認められていなくても、生の無条件の肯定を具体的・直接的に社会に突き出し、認めさせていく民衆の行動。「極窮権」の行使  オーソドックスな見方とは違い、この闘いの本質は、組織労働者として認められ、交渉相手が既に存在する言わば「ワーキングクラス」よりも、むしろ、そうでない者たち、言わば「アンダークラス」とでも呼ぶべき人々の闘いに、より引き継がれていると捉えたい。
  2.  例えば、山谷や釜が崎など「寄せ場」での日雇い労働者たちの何次にも渡る60年代~70年代に頻発した暴動、あるいは、労働力を売る以前の者たち=学生による〈68年〉の叛乱などである。(あの〈68年〉の全共闘運動をサンジカリズムというふうに言う人もいるらしい。)→詳細はシーン3で
   
(2) 米騒動を受け継いだ者たちの叛乱とは
  1.  100年の民衆運動の歴史は、それぞれ固有名詞で語られるが、共通する側面がある。民衆運動は、国家や資本主義社会を成り立たせている既存の秩序が押しつけてくる抑圧的な人間関係に抗い、自分・たちは、それを逆転させたい、主体的に関係を作り変えたいという、民衆の一人一人の腹の底からせり上がる欲求が民衆を突き動かし、自分自身の殻を破ることで起こる。民衆運動の歴史は、民衆が自らの欲求に突き動かされ、権力を前に、身を躍らせ、叫び声を上げた経験の積み重ねである。
  2.   それは、秩序が期待する役割から脱落・脱出して、自分自身の自由意志でもって、自分の隣人と、既存の秩序に抗う民衆同士として、自由に、開放的に、水平に「結びあい・繋がり合う」ことの経験である。―私・たちはそれを、〈生のサンジカ〉の希求と呼んでいる。私・たちがなすべきことは、それらの民衆の経験から学び、経験の積み重ねの上に立ち、秩序の圧力に抗いながら「結びあい・繋がり合う」力をさらに高めるように運動することではないか。
   
(3) 100年後の今、私・たちがなすべきことは
  1.  今や、一方で労組のナショナルセンターと「革新」政党が両輪となって諸社会運動を牽引するという日本の社会運動の「古典的範型」は崩れて久しい。他方でネオリベ資本主義が、かつては市場原理がそこまで及ぶとは思われていなかった医療、介護、育児等、いわゆる生の再生産の領域にまでどんどん踏み込んで来るようになった。最早、一家の主が家族を養うために外で稼いで、その妻が子育てや老親の介護をしながら夫を日々リフレッシュさせ職場へ送り出すというモデルは労働者の賃金低下に伴い崩れ、女性もより低賃金で労働現場に連れ出されている状況である。
  2.  こうなると必然的に、資本主義VS社会運動の攻防の主戦場は生産現場とは言えなくなる。今日その主戦場は、むしろ生の再生産の領域に設定されねばならない。なぜなら、その領域で労働市場が拡大を続け、今や多くの人々の労働現場となっているのだから。さらに、そこでの労働は、何らかの困難を抱えた人々の生をサポートするという非常にデリケートな「感情労働」であることが多い。生の困難を抱えた当事者と低賃金で不安定な雇用形態のケアワーカーが、一方はケアされる対象に押し込められ、他方は低賃金でありながらデリケートで難しい「感情労働」を強いられている。
  3.   資本が、人が本来備えている相手に対する気遣いをも収奪して市場を成り立たせているのだから、生の困難の当事者とケアワーカーは、お互いに生きることの根を資本に蹂躙されているという点で同様であり、もちろん難しさを伴うが、資本に抗う者同志として共闘も可能なはずである。資本主義社会のなかで高齢者を筆頭に生の困難当事者が増え続ける中で、ケアワーカー、さらには家族としてケアワークを続ける人たちもまた増え続けている。このことはネオリベ資本主義にとっても弱点になるに違いない。
  4.  これらの点から、資本主義VS社会運動の攻防の主戦場は生の再生産の領域にあることは間違いない。問題は、資本主義に対抗する生の困難当事者、様々なケアワーカー、家族としてケアし続ける者、これら3者を分断を超えて繋げることができるかどうかに懸かっている。「米騒動」の闘いを受け継ぐ闘いは、今や、生の再生産の領域で資本主義に対抗するその3者の繋がりの中にこそ生まれるものと考える。。
  5.  「すべての生の無条件の肯定」  米騒動以来、この列島の民衆運動が引き継いできたこの旗を、私・たちもまた受け継ぎ、掲げることで、「私・たちはここにいるぞ」と示したい。生きることの根を資本に蹂躙されても、やられっぱなしではなく資本に抗うために顔を上げた彼ら/彼女らの、その目にとまるように、この旗を高く高く掲げたい。
 
SCENE2の終わりにあたって
  1.  今、私・たちは、この列島社会に走るいくつもの亀裂を修復できない日本国家が、その統治の失敗を覆い隠すためだけに濫用する、「共生」やら「我が事・丸ごとの地域づくり」やらの官製用語で包囲された中で生を営んでいる。社会の破綻を目前にしても、なおも権力の側が強要してくる既成秩序維持のための人間関係に、黙って行儀よく収まることを潔しとしていては、100年後の未来などありえない。秩序維持の圧力を拒み、民衆同士の自由で開放的で水平な「結びあい・繋がり合い」の力で対抗していくことが、閉塞状況の突破口になるはずである。
  2.  米騒動から100年の民衆運動の歴史は、社会的存在である人間が、人との関係を、国家や資本に強要されるままではなく、それに抗って主体的に結ぼうとする欲求が、爆発的に膨れあがり吹き上がったその一瞬一瞬の積み重ねであったとも言える。そのような系譜の上に立って、今日的な分断を超えて人々が主体的に繋がる契機をそこここに生み出すこと  これこそが、今、私・たちがなすべきことである。
米騒動100年プロジェクトSCENE2
米騒動100年プロジェクトSCENE2
米騒動100年プロジェクトSCENE2
米騒動100年プロジェクトSCENE2

SCENE2 資料
食糧騒動について 与謝野晶子

 このたびの三府一道三十余県という広汎な範囲にわたって爆発した民衆の食糧騒動は天明(てんめい)や天保(てんぽう)年間の飢饉時代に起ったそれよりは劇烈を極めて、大正の歴史に意外の汚点を留(とど)めるに到りました。私はこれについて浮んだいろいろの感想の一部を順序もなく書きます。
 誰も知る通り、この騒動の直接の原因は物価の暴騰で、就中(なかんずく)米価の法外な暴騰にあるのですが、間接の原因としては、物価の暴騰を激成した成金階級の横暴と、その成金階級の利益を偏重して、物価の調節に必要なあらゆる応急手段を早く取らなかった上に、意義不明の出兵沙汰や、時機を失した調節令などに由って、一層米価の暴騰を助長した軍閥内閣の秕政(ひせい)とに対する社会的不平を挙げねばなりません。
 人間は久しい間の歴史的進化を続けて、科学、哲学、芸術、宗教、道徳という類の高級な精神生活を営んではおりますが、一面には動物の一種として、動物に共通する食欲、性欲の如き本能生活を保存しているのですから、生きて行くのに欠くことの出来ない食糧その他の第一必要品の供給が不足し困難になって、一旦、饑餓凍寒の状態が目前に切迫した危急の場合に臨めば、今もなお、食物が全く決定的に専ら生活の因素となっていた元始時代の人間の持っていたのと同じような猛烈な本能的衝動に駆られて、死に抵抗する力を以て、如何なる非常手段を取っても、その危急のために自衛するに足る物質的必要を満たそうとせずに置きません。窮すれば濫し、飢えては道徳の外に立ちます。知識の修養と倫理的意識の訓練とがある者とない者とでは、自制の力を抛棄(ほうき)するのに遅速はあるでしょうが、どうしても尋常一様のことでは饑餓の危険を避けることが出来ないとすれば、何人(なんぴと)も生きようとする意志の不可抗力的妄動のままに、倫理の埒(らち)を越えて、もとより重々の遺憾を感じながら、野性を暴露した最後の非常手段を取ろうとします。みすみす一つの活路があるのに、それを知らぬふりして伯夷叔斉(はくいしゅくせい)を学ぶ者は殆ど今の時代になかろうと思います。
 富山県の片田舎に住む漁民の妻女たちが数百人大挙して米一揆(いっき)を起したのが、偶然とはいえ、この度の騒動の口火となったということは、このたびの騒動の主因を最も好く説明しております。彼らは最も米穀の供給の尠(すくな)い土地に住み、そうして高価な米を買うことの最も困難な境遇にいて、この一両年間、絶えず日々の食糧に苦心を払い、殊に最近三カ月以来は米価の可速度的な[#「可速度的な」はママ]暴騰につれて減食の苦痛を続け、最後に一升五十銭を越すという絶体絶命の窮境に追い詰められ、饑餓と死の間に挟まるに及んで、恥も道徳も忘れた(忘れざるを得なかった)最後の非常手段を取るに到りました。私たち無産階級の婦人はいずれも家庭にあって厨(くりや)を司(つかさど)っているだけ、食糧の欠乏については人一倍その苦痛を迅速にかつ切実に感じます。彼ら漁民の妻女たちが、たとい自分たちは飢えても、両親、良人、子供たちには出来るだけ食べさせたいと思う心から、その苦痛の絶頂に達した時、何人よりも先に忍耐を破ったのに対して、私は十二分の同情を寄せずにいられません。のみならず、私たち無産階級の婦人の連帯責任として、私はこれを我事の如くに思い、その弁護すべきを弁護すると共に、事の後に反省して、その手段の常軌を逸していたことの愧(は)ずべきを併せてあくまでも愧じたいと考えます。
 富山県の漁民の妻女たちは、このたびの騒動の中で、最も純粋にその主因である食糧問題に由ってのみ行動しましたが、他の府県の騒動に到っては、同じ問題を主因としながら、ついでに資本家階級殊(こと)に成金階級と軍閥政府とに対する社会的不平を爆発させることの方が劇烈であったように見受けます。そうして、常軌を逸することの甚だしい民衆は、節制もなく、規律もなく、唯だ不平的気分と弥次的気分との中に、良民の家屋を破壊し、傷害や、放火や、食糧品以外の贅沢(ぜいたく)品の掠奪(りゃくだつ)をさえ敢てしました。物価暴騰の苦痛を分ち、社会的不平を共にする点について同じく民衆の一人であることを光栄とする私ですが、その余りに常軌を逸して、暴徒となり、或者は強盗ともなった彼らの行為に対しては、これを救解すべき所以(ゆえん)を知りません。
 彼らの中には、米商の倉庫にある数百俵の米を海に投じもしくは焼き棄てた者さえあります。正気を乱した彼らは、自分たちが非常手段を取るに到った主要な目的までを忘れているのです。
 私は漁民の妻女がやむをえずして取ったような純粋な食糧に本づく最後の非常手段以外に、そういう乱民的暴行の演ぜられたことを、私たち民衆の名に対して赤面して恐懼(きょうく)します。現代の民衆の運動は、出来るだけ自覚的に一貫した意義があり、規律があり節制のあるものでなくてはなりません。相互に愛し扶助すべき民衆が――殊に民衆のために間接の殺人者略奪者である少数の権力階級と財力階級とに猛省を促そうとして奮起した民衆が――相互に殺しかつ掠奪するに到っては沙汰の限りだと思います。

 これについて、東京女子高等師範学校長の湯原元一(ゆはらもといち)氏は、我国の教育の無力であったことに驚かれたようですが、私は必ずしも*そう*は思いません。かえって文部省の教育の効果がここに現れているのではないかと思うのです。普通教育において時代遅れの歴史的武士道的道徳と浪華節(なにわぶし)以上に出ていない義理人情とを教えて、人間としての愛と権利義務思想とを教えないで置けば、自己の死活に関する大問題の前に、こういう無秩序、不節制、不仁狂暴の動物的妄動を敢てするに到るものであるかと思って、私はむしろ官僚教育の効果の大いなるのに驚く者です。
 さて着眼点を更(か)えて私は思います。寺内内閣は、どうして民衆の生命に関する問題をこうまで危険に瀕(ひん)せしめたのでしょうか。どうして民衆の精神と行為をこうまで動物的に逆転せしめたのでしょうか。
 昔の哲人は「いまだ兆(きざ)さざる時は謀(はか)りやすし」といい、「これをいまだ乱れざるに治めよ」と言いました。寺内内閣にして早く就任当時においてこれに気が附いていたならば、これに備えて禍を未然に防ぐだけの時日は十分にあったのです。物価の法外な騰貴は決して今年に入って以来の現象ではなく、二年以前において既に何人にも目に余る事実であったのですが、政府当局者は常に楽観的大言を放って、在野の識者の忠告に耳を仮さず、物価暴騰の原因である通貨の膨脹、物資供給の減少、投機的資本家の買占、運輸機関の不足等について、何らの臨機の施設をも断行しませんでした。そうして最近に及んで遅れ馳(ば)せに暴利取締令を出したり、全国にわたって十石(こく)以上の貯蔵米を申告させたり、御用商人に托して外米の輸入を計ったりしたような事が、かえって一層米価の暴騰を激成する結果となりました。
 寺内内閣はこうして自己の秕政に気附かず、反対に首相寺内氏は政綱として常に善政主義を唱え、国民の物質生活には自給自足主義を以て楽観し、お門違いにも文学者の思想を危険視してその方面の出版物に発売禁止を濫行し、露西亜の過激派を憎んでチェック軍と共に征討の兵を浦塩(ウラジオ)に出すようなことをしながら、自国の民衆の無産階級から一種の過激派的暴動を突発するに到るような危険状態の原因を寺内内閣自身が醸成しつつあることに想い到らなかったのでした。
 食糧騒動が突発して燎原(りょうげん)の勢で拡大するに及んで、一方に軍隊の力を以て民衆を威圧すると共に、倉皇として穀物収用令を出したり、富豪の義金を促して内外米の廉売を初めさせたりして、当面の食糧不足を救済しようとしているのですが、最後には民衆に向って兵力を用い、併せて一種の「施し」である慈善行為の中に一般民衆を乞食扱にする政治が、どうして寺内氏の口癖のような善政といわれるでしょうか。私は現に市役所で売る廉米を買って、その時価よりも十銭近く廉(やす)いという実際の利益を十分に嬉しく感じながらも、一面では、寺内内閣の施設さえ早く宜しきを得ていたら、こうした心にもない恩恵を受けなくても済むものをと思って、一種の遺憾と不快とを抑えることが出来ません。
 寺内内閣が天下の器でないことは、このたびの暴動を激成したことに由って余りに明かになりました。国民は既に挙(こぞ)って寺内内閣の弔鐘を打っております。
 寺内内閣が直ぐに崩壊すると否とにかかわらず、また食糧騒動がこれきり鎮静すると否とにかかわらず、物価暴騰の事実は依然重大な社会事実として残っております。恩恵的行為である、内外米の廉売の如きは、目前の危急を一時的に救う変則的調節策に過ぎません。為政者は異常の時に異常の策を撰んで、米の不足を補うために本年度の酒造を全く禁止するも宜しいでしょう。食糧を初めその他の第一必要品の配給を容易にするためには、船腹の不足を補って多数の軍艦を代用するも好く、全国の汽車をそれらの運輸のために臨時に無賃とするも好いでしょう。また私たち無産階級のみが外米を食べるのでなくて、河上肇(かわかみはじめ)博士の説の如く、貴族と有産階級とに論なく、臨機の処置として国民全体が一斉平等に外米を混じた米を食べるだけの忍耐を自覚せしめ、社会に外米を混じない米の存在を許さないことにし、それに由って国家が米穀の標準価格を一定して、特に恩恵的侮辱的の意味を持った「廉米」という名称をも全廃するに至って欲しいと思います。
米価が右のような英断に由って安定を得るならば、その他の物価も同様の方針から出た施設に由って必ず或程度まで緩和することが出来るでしょう。食糧品の公設市場を急速にいくつとなく設けるという事も永久に一つの必要な物価調節策だと思います。これらの施設のためには、従来の投機的資本家や、問屋や、小売商人からの反対運動と戦わねばなりません。私は東京の田尻(たじり)市長が、市営の廉米を、纔(わず)かに一週間にして、市内の白米小売商に依托したような妥協姑息の精神を排斥したいと思います。
 私は社会に常在する不幸無力な人たちのため、また今日のような不自然な物価騰貴に由って生活難のどん底にある人たちのために、公私の慈善救済の機関が設けられることを必要とする者ですが、これまでから、慈善行為が婦人の適任であるように決定的にいわれていた世論に対して、私は窃(ひそ)かにそれを軽視し、現在の社会組織において、経済的生産の実力を全く欠き、父兄や、良人に寄生して、それらの男子の財力に縋(すが)って養われている婦人が、その保護者から恵まれた(むしろ偸(ぬす)み取った)金銭の大部分を衣服や装飾品の物質的欲望の満足に消費し、纔(わず)かにその一部の小額を割(さ)いて虚栄心の満足のために慈善家ぶって寄附することは、決して称揚すべき行為でなく、またその少額の喜捨が――たとい貧者の一灯という、美くしい讃辞があるにせよ――現代においては、最早何ほどの社会的効果をも挙げ得ないものであると考えているのでした。
 しかるに計らずも、このたびの食糧騒動の促した各都市の救済行為が、私の持説に裏書をしているように思われます。
 皆さんのお見受けの通り、このたびの救済行為は在来のに比べるとやや大仕掛であって、各都市はそれに補給されて内外米の廉売を盛(さかん)に実行しております。そうして、それらの寄附者の主なる人たちには、一つの婦人慈善団体も加わっていないのです。百万、五十万、二十万というような大きな額のは勿論、一万、二万という額のものは悉(ことごと)く富豪階級における男子たちの名に由って提供されております。
 こういう巨額な寄附をしてこそ慈善行為も現に見る所のように、その効果を最も顕著に挙げることが出来ます。現代の慈善はかつて私が救世軍の慈善鍋(なべ)を評した時にも述べたことですが――多くの労力を掛けて零細な金銭を集めるような迂闊(うかつ)な手段に由って為(な)されるのでなく、不当利得を常態として、民衆の労働価値の大部分を自家の私有財産に組み入れている大資本家階級から、今度のように必要に応じて、一挙して数百万乃至(ないし)数千万円を醵出(きょしゅつ)する事でなければなりません。これに由って思うと、最も有効な慈善については婦人の無力であることが解り、併せて慈善行為がその無力な婦人に決して適当した任務でないことが解ります。しかし私はこれがために婦人の持っている優しい慈善心を抑制し、かつその慈善行為を廃棄せよというのではありません。(一九一八年八月)
 
(下線は引用者) (『太陽』一九一八年九月)(青空文庫から

風信

「出来事は、妨害や抑圧を被ったり、回収されたり、裏切られたりし得るが、しかしなお、けっして乗り越えられ得ない何かを含んでいる。・・・出来事は、可能性に開かれたものであり、社会の厚みのなかで、そして、個人の内部で存続する。」 (ジル・ドウルーズ)
アナキズム文献センター通信第42号から〈引用〉
上記は、当プロジェクトへの参加者であるYさんから手渡された「アナキズム文献センター 通信42号」からの〈引用〉
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米騒動
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